飯田下伊那は、戦時中は当時の「満州」に全国で最大級の移民を送り出しました。いくつかの村は、村民を二つに分けて、その一つを満州に送る「分村移民」という形さえとりました。満州移民の送出数は長野県が三万七千人ともっとも多く、二番目の一万七千人の山形県を大きく引き離しています。その長野県の中でも県南部の飯田下伊那が最大数の満州移民を送り出しました。そして、飯田下伊那のなかでも各町村の満州移民送出数には大きな違いがあり、上久堅村、千代村、清内路村、川路村、泰阜村、河野村などが多くの満州移民を送っています。
満州に移民を送ったのはすでに半世紀以上前ですが、現在もこの地域に影響を与えています。満州移民を考えることは、過去だけでなく、現在にも、他の地域にもつながります。このためには実際に多くの人を満州に送り出した一九四〇年代前半だけでなく、一九二〇年代まで、飯田下伊那だけでなく、世界にまで視野を広げる必要があります。
第一章
一九二〇年代、アメリカの好況と女性のファッションの変化は、遠く飯田下伊那の社会や経済にも影響を与えました。飯田下伊那は生糸を通してアメリカ経済に結びつき、養蚕に専念する農業も現れたり、消費が拡大したりしましたが、この状況は地域によって違いました。
一九二九年の世界恐慌は、この地域に大きな衝撃を与えました。恐慌によって下層の農民は大きな打撃を受け、一方、地主は所有地を拡大しました。その間に位置する中農層は没落の危機に直面史、激しくゆれ動いたのです。地域的には、養蚕に生計の多くをゆだねることころにおいてとくに打撃は大きかったのでした。そして、経済更生運動の分村計画指定村になることによって与えられる補助金で、この状況から立ち上がろうとする村も多かったのでした。これには、満州移民を推進しようとした人々の間に、満州の状況に対する楽観的な見通しがあったのでしょう。当時は、満州に関する報道は統制されており、ゆがめられた形でしか日本に入ってきていなかったのです。そして、実際に満州に移民を送り出す頃には、景気は回復しつつありました。
満州分村移民の経験は、私たちにいろいろなことを教えてくれます。地域を支える産業のあり方、報道の自由の大切さ、地域の状況を正確につかむ必要性など、現在の私たちも考えるべき点が数多くあります。
満州移民は飯田下伊那だけの問題ではありません。養蚕は、飯田下伊那ほどではないにしても日本の多くの地域で行われていましたし、飯田下伊那、長野県以外でも満州移民を多く送出した地域もあります。こうした状況が、飯田下伊那でもっとも量的に多い形で現れたのです。
第二章
飯田下伊那には「満州へ行くことは名誉なこと」という雰囲気が社会にも学校の中にも漂っていました。信濃教育界は他県と較べ義勇軍の送出に力を入れていました。そのもとにあった下伊那教育会はその命令を忠実に守りました。しかも下伊那の先生は「満チキ」1と呼ばれるほど熱心でした。学問を教える責務のある教師は、周りの動静に気をとられ世界の歴史、日本の歴史、当時日本の置かれている情勢を教えず、多くの少年を送り出してしまったのです。子供たちは身近な校長先生から受けて拓務訓練により義勇軍行きを決意したのです。下伊那教育では全国一の義勇軍送出達成に誇りをもち公表していました。農業開拓者もそうでした。国際を県、群、村が「満州へ行くことはお国のためになる」と強力に推進し、割当数を増やしもらい、消化していったのです。この二つの動因を可能にさせたものは何だったのでしょう。飯田下伊那には江戸時代末期から平田国学
飯田下伊那は、戦時中は当時の「満州」に全国で最大級の移民を送り出しました。いくつかの村は、村民を二つに分けて、その一つを満州に送る「分村移民」という形さえとりました。満州移民の送出数は長野県が三万七千人ともっとも多く、二番目の一万七千人の山形県を大きく引き離しています。その長野県の中でも県南部の飯田下伊那が最大数の満州移民を送り出しました。そして、飯田下伊那のなかでも各町村の満州移民送出数には大きな違いがあり、上久堅村、千代村、清内路村、川路村、泰阜村、河野村などが多くの満州移民を送っています。
満州に移民を送ったのはすでに半世紀以上前ですが、現在もこの地域に影響を与えています。満州移民を考えることは、過去だけでなく、現在にも、他の地域にもつながります。このためには実際に多くの人を満州に送り出した一九四〇年代前半だけでなく、一九二〇年代まで、飯田下伊那だけでなく、世界にまで視野を広げる必要があります。
第一章
一九二〇年代、アメリカの好況と女性のファッションの変化は、遠く飯田下伊那の社会や経済にも影響を与えました。飯田下伊那は生糸を通してアメリカ経済に結びつき、養蚕に専念する農業も現れたり、消費が拡大したりしましたが、この状況は地域によって違いました。
一九二九年の世界恐慌は、この地域に大きな衝撃を与えました。恐慌によって下層の農民は大きな打撃を受け、一方、地主は所有地を拡大しました。その間に位置する中農層は没落の危機に直面史、激しくゆれ動いたのです。地域的には、養蚕に生計の多くをゆだねることころにおいてとくに打撃は大きかったのでした。そして、経済更生運動の分村計画指定村になることによって与えられる補助金で、この状況から立ち上がろうとする村も多かったのでした。これには、満州移民を推進しようとした人々の間に、満州の状況に対する楽観的な見通しがあったのでしょう。当時は、満州に関する報道は統制されており、ゆがめられた形でしか日本に入ってきていなかったのです。そして、実際に満州に移民を送り出す頃には、景気は回復しつつありました。
満州分村移民の経験は、私たちにいろいろなことを教えてくれます。地域を支える産業のあり方、報道の自由の大切さ、地域の状況を正確につかむ必要性など、現在の私たちも考えるべき点が数多くあります。
満州移民は飯田下伊那だけの問題ではありません。養蚕は、飯田下伊那ほどではないにしても日本の多くの地域で行われていましたし、飯田下伊那、長野県以外でも満州移民を多く送出した地域もあります。こうした状況が、飯田下伊那でもっとも量的に多い形で現れたのです。
第二章
飯田下伊那には「満州へ行くことは名誉なこと」という雰囲気が社会にも学校の中にも漂っていました。信濃教育界は他県と較べ義勇軍の送出に力を入れていました。そのもとにあった下伊那教育会はその命令を忠実に守りました。しかも下伊那の先生は「満チキ」1と呼ばれるほど熱心でした。学問を教える責務のある教師は、周りの動静に気をとられ世界の歴史、日本の歴史、当時日本の置かれている情勢を教えず、多くの少年を送り出してしまったのです。子供たちは身近な校長先生から受けて拓務訓練により義勇軍行きを決意したのです。下伊那教育では全国一の義勇軍送出達成に誇りをもち公表していました。農業開拓者もそうでした。国際を県、群、村が「満州へ行くことはお国のためになる」と強力に推進し、割当数を増やしもらい、消化していったのです。この二つの動因を可能にさせたものは何だったのでしょう。飯田下伊那には江戸時代末期から平田国学の門人が長野県内では一番多く豪農・豪商の人が加入していました。その流れは全国一早くできた「下伊那群国民精神作商会」二引き継がれ、村の中堅層へ浸透し村行政を通して村内を取り仕切っていきました。そしてこの人たちは在郷軍人会の中心的役割も担い、満州移民の送出に指導的役割を果たしました。自ら先導者として渡った人もいました。在郷軍人会は学校へも行き、義勇軍送出、興亜教育の拍車をかけたのです。
移民はさまざまな宣伝によって「夢をいだいて満州へ」渡って行きましたが、満州に住んでいた人たちのことを考える人はあまりいませんでした。現地の人たちは土地や家屋を失いました。満州へ行く前の宣伝だった五族協和は果たされませんでした。
満州の生活は宣伝とは反対に苦しいものでした。春には花がいっぱい咲いてうつくしかったものの、現地人との摩擦、農業経営の不振によって「自分たちは捨てられた民である」と考える人もできました。農業のみをする目的で来た農民にとってソ連との国境警備の盾とされているなどと考える人はいませんでした。それどころか開拓に行けば召集がまぬかれると信じていたのに、一九四五年七月の召集には驚かされました。
満州移民は、飯田下伊那の今後にとってどういう教訓を残したのでしょうか。
全国一多くの満州移民を送り出した地域の歴史を明らかにし、日本の歴史を学び、世界の歴史を学ばなければ、悲劇はまた繰り返されます。地域の歴史を明らかにすることは、単に文献に残されたものだけでなく、民衆の中に残されている。記憶を知る事が大切です。満州移民の場合も、体験者が文献に残せない環境にあったことが、戦後満州開拓の反省を遅らせた原因にもなっています。そして戦時中の人的つながりを戦後もそのまま引き継いでいる部分もあります。満州移民の評価を行ない、そのうえで地域の再生が考えられるでしょう。自分たちの利害だけで他の民族を差別することはいけないということを満州移民の歴史は物語っています。これは個人から国全体で言えることでしょう。また私たちは教育のありかたを義勇軍送出で見てきました。その恐ろしさ、怖さは拓務訓練の感想文や手記、聞取りなどで明らかになると同時に教員が体制に組み込まれていく様子も見ることができました。このことを戦後どう生徒に教育していったのか疑問です。とくに教育に携わる人たちに歴史を学んで欲しいものです。
満州体験者の多くにおおらかな人たちが見られます。そうした大らかさによって、幾多の困難を乗り越えて生きてこられたのでしょう。私たちはその方たちに学び、生きていかなければなりません。
第三章
満州移民は、国家が軍事力を背景に他国の領土の中に傀儡国家を作り上げ、自国民を移住させる政策でした。この国策にほとんど疑問をいだくことなく、飯田下伊那という地域が翻弄されて、選択肢を狭められた個人と家族が飲み込まれていきました。その果てに筆舌に尽くしがたい苦悩と数多の死がありました。対ソ戦の盾として見捨てられた開拓団は、土地を奪われた中国の人々と衝突しました。ソ連軍の攻撃と逃避行のなかで、自らの手で親やわが子、隣人を殺めなければならなかった人たちがいました。その深い絶望を思うと、私は胸が詰まり、言葉を失います。
敗戦後の国際情勢は早期引き上げを不可能とし、人々は収容所で冬を迎えました。激寒に供えがなかった収容所では幼い生命の多くは春を迎えることができませんでした。軍の論理と国家の無策の前に、人としての尊厳が踏みにじられた悲劇でした。開拓団による儀すぃの大きさの違いは、開拓団幹部の意識と判断の違いが関係していました。現地中国の人たちに助けられた女性や子供たちもいました。生還しても罪深さにおののき、自責の念に苦しみながら生涯を過ごしてきた人たちも少なくないのです。ここ飯田下伊那にはそのような人たちが今も暮らしています。
一地域としては最大の八三〇〇余人を送出、三八〇〇余人の犠牲者、未帰還者たち、これは紛れのない事実です。しかしその一方で数の多少にとらわれて犠牲について語ることには危うさがあります。「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」と、応召後、中国東北に配属されて敗戦後にシベリアの過酷な収容所を体験した詩人石墓吉郎の言葉です。
人は生きる時代を選ぶことはできません。その制約された時間と空間の中を生きてきた一人ひとりの営みや息づかいも知りたいのです。この賞は地域のなかで語りはじめた満州体験者の思いと、その思いを聞き取った人たちの記述に支えられています。すでに多くの証言と記録が残されていましたが、おのれの人生を振り返られる地平に至った次の世代が今、私たちに向かってはじめているのです。
体験者の多くは語りや回想の中で、国策と移民送出に奔走した人びと、団幹部に対して批判的です。と同時に、彼の地を懐かしみます。おのれの人生を肯定的にとらえることはごく自然なことでしょう。しかし、言うまでもなく満州へ渡った人たちは被害者であると同時に中国の人びとによっては加害者にほかなりません。土地を奪われ、肉親を殺害され、人間としての存在を脅かされ、癒されないまま人生を生きてきた中国の人たちも数多いのです。私たちは、この深刻な事実を忘れて満州移民について語ることはできません。私たちは自身が生きる地域に根ざしながらも、他者の存在を見失って、身近な他者と世界への想像力を鈍らせてはならないのです。人は誰でも個人として尊重されなければなりません。そして飯田下伊那からの視点を超えて真の意味でのグローバルな視点を持つとき、はじめて満州移民の全体が見えてくるのではないでしょうか。私たちはまだ多くの課題を抱えています。
第四章
満州移民は敗戦で終わったわけではありません。もちろん、満州国は一九四五年八月十五日で崩壊します。しかし、満州国がなくなっても、敗戦になっても、満州開拓団に平和は訪れなかったのです。ソ連...