栽培&エコ

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    資料紹介

    『栽培&エコ』
    菜園日誌を始めてみると、そこには書き込むことのできない、日々の栽培の様子とは違った、「考え」を書くページがないことに気づき、こちらに作りました。 私自身の基本的な栽培方法と栽培に関する考え方、環境への取り組みなど: ハーブ栽培、   めあり~さんちの菜園  をご覧下さい。
    なにが「いい」のか。
    結局、なにが、どう、「いい」のか、考えれば考えるほど分からなくなってくる。 あれもだめ、これもだめ、では、生きているこの私たち人間の存在そのものも?なんていうところまで行き着いてしまう。 肥料も、完全に成熟したものでなければだめ、という考え方もあれば、自然界では一体どうなのか、未熟な堆肥は土の上にはあるが、土中にはない、とか…。 有機肥料を使い出すと病害虫に弱い植物になったから、永田農法主張の化学肥料でやってみたけど、それでも風通しが十分ではないのか、どれもこれもハダニなどにやられてしまうような経験。 感想でこの液肥を与えたら、4、5日で見る見る間に元気、という声を信じて、これが本当に最後の挑戦!と思いきや、そうでもなかったり…。 みな、同じように試行錯誤している。 でも、他の人がよい、と言った肥料や方法は、すべての人によい、のではない。 まったく同じ環境で栽培しているのではないのだから。 土の材質やブレンドした比率、雨風日光の当たり具合、庭や畑か、あるいは鉢植えなのか。さらに、地域によってもまったく異なる。 それと、育てる植物が、適材適所かどうかも違う。 無理な環境で育てようと思っても、やはりそこには無理があって、人工的な環境を造りださなければならない。 だから、 結局、自分で試してみて、そして、これだ!と思う土、土の割合、肥料、肥料作りの方法を手探りで見つけるしかない。
    xx農法を考え出すとキリがない
    農薬を使って害虫を排除し、除草剤を撒いては草をも排除し、生長促進剤やホルモン剤などで形よく色をつける、明治時代以降の慣行農業。 それに対して、農薬はいけない、といいつつも、「有機公認の農薬」を蒔き、除草剤こそ撒かないが、自然であるそこに生きている雑草を邪魔だ、と根っこから刈り取ってしまい、肥料といえば、いくら有機と認定された肥料であったとしてもその肥料の元である家畜や植物には、それらを育てるためのホルモン剤や農薬が入っていることが多く、しかも完全なる完熟ではない肥料のために、土中でガスを発生させてしまい、空気中や河川や海、そして降る雨までも汚染している、という有機農法。(最近は有機農法は環境汚染という説はすでに欧州ではあり、日本でも大きくなってきている)また、この過剰肥料のために返って害虫が多く発生し、低農薬に切り替えたり、あるいは認定農薬以外の農薬を使わざるを得なくなったりして慣行農業とほぼ変わらない、というのが現状、という有機農法。 ほかに、植物は結局は冠水や雨水によって栄養分が溶け出して初めて吸収されるのだから、液肥で十分、という永田農法。 さらに、農薬も肥料も与えず、耕すこともせず、雑草はそのまま生かす自然農法がある。 その自然農法とうたっている農法にも、さまざまな主張があるが、肥料に対しては甘く、環境破壊であるピートモスを「要調査」とはいえ、公認していたり、家庭のゴミの未熟肥料を堆肥としていたり、これもガスを発生させてしまうという油カスを推奨している自然農法もある。 そして、農業という行為自体が自然ではなく、人間の手が加わった時点で、自然は自然とはもう呼べない、という主張も当然ある。 「入れない、出さない」、という主義を、肥料に

    資料の原本内容

    『栽培&エコ』
    菜園日誌を始めてみると、そこには書き込むことのできない、日々の栽培の様子とは違った、「考え」を書くページがないことに気づき、こちらに作りました。 私自身の基本的な栽培方法と栽培に関する考え方、環境への取り組みなど: ハーブ栽培、   めあり~さんちの菜園  をご覧下さい。
    なにが「いい」のか。
    結局、なにが、どう、「いい」のか、考えれば考えるほど分からなくなってくる。 あれもだめ、これもだめ、では、生きているこの私たち人間の存在そのものも?なんていうところまで行き着いてしまう。 肥料も、完全に成熟したものでなければだめ、という考え方もあれば、自然界では一体どうなのか、未熟な堆肥は土の上にはあるが、土中にはない、とか…。 有機肥料を使い出すと病害虫に弱い植物になったから、永田農法主張の化学肥料でやってみたけど、それでも風通しが十分ではないのか、どれもこれもハダニなどにやられてしまうような経験。 感想でこの液肥を与えたら、4、5日で見る見る間に元気、という声を信じて、これが本当に最後の挑戦!と思いきや、そうでもなかったり…。 みな、同じように試行錯誤している。 でも、他の人がよい、と言った肥料や方法は、すべての人によい、のではない。 まったく同じ環境で栽培しているのではないのだから。 土の材質やブレンドした比率、雨風日光の当たり具合、庭や畑か、あるいは鉢植えなのか。さらに、地域によってもまったく異なる。 それと、育てる植物が、適材適所かどうかも違う。 無理な環境で育てようと思っても、やはりそこには無理があって、人工的な環境を造りださなければならない。 だから、 結局、自分で試してみて、そして、これだ!と思う土、土の割合、肥料、肥料作りの方法を手探りで見つけるしかない。
    xx農法を考え出すとキリがない
    農薬を使って害虫を排除し、除草剤を撒いては草をも排除し、生長促進剤やホルモン剤などで形よく色をつける、明治時代以降の慣行農業。 それに対して、農薬はいけない、といいつつも、「有機公認の農薬」を蒔き、除草剤こそ撒かないが、自然であるそこに生きている雑草を邪魔だ、と根っこから刈り取ってしまい、肥料といえば、いくら有機と認定された肥料であったとしてもその肥料の元である家畜や植物には、それらを育てるためのホルモン剤や農薬が入っていることが多く、しかも完全なる完熟ではない肥料のために、土中でガスを発生させてしまい、空気中や河川や海、そして降る雨までも汚染している、という有機農法。(最近は有機農法は環境汚染という説はすでに欧州ではあり、日本でも大きくなってきている)また、この過剰肥料のために返って害虫が多く発生し、低農薬に切り替えたり、あるいは認定農薬以外の農薬を使わざるを得なくなったりして慣行農業とほぼ変わらない、というのが現状、という有機農法。 ほかに、植物は結局は冠水や雨水によって栄養分が溶け出して初めて吸収されるのだから、液肥で十分、という永田農法。 さらに、農薬も肥料も与えず、耕すこともせず、雑草はそのまま生かす自然農法がある。 その自然農法とうたっている農法にも、さまざまな主張があるが、肥料に対しては甘く、環境破壊であるピートモスを「要調査」とはいえ、公認していたり、家庭のゴミの未熟肥料を堆肥としていたり、これもガスを発生させてしまうという油カスを推奨している自然農法もある。 そして、農業という行為自体が自然ではなく、人間の手が加わった時点で、自然は自然とはもう呼べない、という主張も当然ある。 「入れない、出さない」、という主義を、肥料に関していえば、買った肥料を持ち込まない、ゴミを出さない、ということであれば、私も家庭の生ゴミを堆肥としよう、と考え出した。 調べていくうちに、すべての主義に矛盾を感じ、さまざまな作り方があるけれども、堆肥の中には、日本土壌学会では「微生物は確かに確認されたが、光合成細菌は見られなかった」という報告があるにもかかわらず、その研究対象となった有名な堆肥作りの会社は、「日本土壌学会でも光合成細菌が確かにあった、という報告がされ、、、」という主張をして肥料を販売している。 私は130度の加熱処理をする生ゴミ処理機を持っているのだが、それを推奨している農学博士は、未熟肥料だから使い方さえ間違えなければ(土と混ぜて2週間寝かせ発酵させる、ということが正しい使い方としている)十分肥料として使える、などと大手メーカーサイトでも言っているけれども、この2週間発酵させている間に、土中や空気中をガスで汚染させてしまっている、ということを忘れている。 また、自然農法主義者は肥料の作り方や使い方に関しては主義主張が異なるのに、「味」や「色」については、一致していて有機栽培の野菜を「あれは肥料の味と色」である。という。 本来の野菜は雑草のような薄い緑色なので、野菜の色は濃ければよい、というものではない。濃い野菜は窒素過剰である、という言葉をよく見かける。 しかし、自然農法主義者は完全な自然農法ではなく、過去の有機栽培していたときの肥料付けされた土地を「自然」に戻すための「肥料」を与えるなんてこともしているので、元の「自然の土」とはいったいなんぞや、結局人間の手で作っているのか、という矛盾だらけになる。 有機農法、自然農法のさらに分かれているさまざまな主張の本を読みまくったけれども、矛盾のない主義者や農法、栽培方法は見つけることができなかった。 こうなると、一個人として、私のように環境によい栽培方法、とはいったいどうすればいいのだろう、と悩んでいる家庭菜園家も多いのだろう。 一般植物のガーデナーはここではとりあえず別として、ハーブを栽培している人であれば、ハーブはお茶や料理に利用することのできる植物なので、米や野菜の栽培方法についての農法と同じコトを考えている人は多いだろう。 結局、私は、永田農法で作っているナスもあれば、川口由一氏に近い自然農法で行っているナスもある。 決して嫌いではない、にんじんやメロン、きゃべつなどは特に喉を通った瞬間とその後に、薬のような味が残るふだん売られている野菜の味は好きではない。 私は幼少期に母がしていた家庭菜園のナス、トマト、じゃがいも、ピーマン、絹さや、いんげんなどを食べていたし、今では50年以上も自給農家をしている夫の母から時々送られてくる野菜を食しては、確かに薬漬けの後味のない「おいしさ」を感じる。 個人の家庭菜園では科学的なデータを取ることもできず、つまりは、この自分の味覚という感覚を頼って自分の菜園をやっていくしかない。 でも、この「おいしさ」を知っていないと、自分の味覚を頼ることもできないのだろう。 よく「昔のおいしい味」というが、明治時代以降は現在の慣行農業なので、それ以前に生まれた人など現存しないわけで、今の私たちは、既に生まれたときから慣行農業の農産物を口にしてきている。 しかし明治時代以前の祖先の遺伝子は私たちに組み込まれているのだから、本能は「おいしい味」を知っているに違いない。 それを実感するには、自分で無肥料あるいは永田農法の化学肥料、有機肥料などで野菜を作ってみて、実際に味わって比較しておいしさを実感してみるしかない。 その「おいしさ」ができたときの栽培方法とは、きっと自然により近いものなのだろう。
    電気もガスも電話もない生活
    自然農法をやっていらっしゃる農家の中には、科学的進歩なるものを極力排除し、電気もガスも電話もない生活をしている、というのを読むと、本当にそこまでできてしまえる人たちっているんだ、と心底感心する。 そういう暮らしは、南の一年中、暖かい無人島にでも行けばできるかもしれないが、などと考えていたけれども、実際、この日本でもその暮らしを実践していらっしゃるとは感服。 7月16日新潟の地震で、体育館に避難している住民が、「電気もガスもない生活は困る」と言っている中年男性がニュースで言っているのが流れたが、自然農法かつ電気ガスのない生活をしている人は、このような災害に見舞われたとき、夜暗くなれば寝て、明るくなれば起きる生活をし、電気がなければ動かないものなど普段使っていなければ、そのような面では困らないのだろう、と電気やガスがなければ生きていけない現代人と重ねて、そう思った。 栽培について、あるいは暮らしの中で環境問題を考え、少しでも無駄なエネルギーを排除していく努力をしている一般市民は多いけれども、結局、そういった電気、ガス、水道、電話、インターネットなどを利用し、エコ、エコ、と言っておきながら、結局エコしていないところあるじゃない、と自分自身で思い悩みこんでしまったり、人に指摘されてしまうことがあるだろう。 しかし、だからといって、なにもしないよりは、一個人が少しでも楽しみながら実行していく積み重ねと広がりが必要なのだと思う。 この私も、このページは結局インターネットという文明を利用している。電話もない暮らしであれば、当然、インターネットには繋がらないのだから。人に公表することも聞いてもらえることもできなくなる。しかし、それがない暮らしの人は、自分たちの暮らしを広げていくことが目的ではなく、ただその人たちにとって自然な暮らしをしている、ということなのだろう。 そして、人々に伝えていくことを使命感として思う人も中にはいる。矛盾を感じながらも、結局は、「自然農法」とは、自然のままであるべき、人間は自然に従属される立場ではなく、現代文明を取り入れて創造していくことが人間の使命なのだから、インターネットという人間が考えた文明をじょうずに利用しながら、問題を伝えていくこと...

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