毘沙門天の形について―東寺像を中心とした考察

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    資料紹介

    1.はじめに
     毘沙門天は四天王の中では多聞天として表わされ、四天王から独立してからは毘沙門天として表わされることが多くなる。毘沙門の形には大雑把に分けてみると、毘沙門天、吉祥天、善膩師童子(不動明王、観音)と安置される三尊像形式と、足下に地天を踏む形式、普通の毘沙門天の形式と三つに区分できるように思われる。このように幾通りかの形式を持つことは同時にそれだけの異なった意味を持つのではないかと考えた。その中で、特に足下に地点を踏む形式のいわゆる兜跋毘沙門天に表わされることの多い藍婆、毘藍婆の二鬼について考察したいと考えている。
    2.兜跋毘沙門天の中国での受容について
     松本栄一氏「兜跋毘沙門天の起源」によると東寺の兜跋毘沙門天はコータンには七世紀ころの絵よりも古く、ラクワ塔址の塑像群があり、地中から出現した女神を足下にした、直立型のイラン式服装天部立像が残っていることから兜跋毘沙門天の起源は西域コータン地方にあるのではないかとする。また、松本文三郎氏は兜跋とは蛮夷服、左衽などを表わすもので、西蔵から中国に伝えられたもので、長い外套様の上着をつけたという意味で、他の毘沙門天と区別するためにつけたと思われるとしている。
     中国の歴史の中で毘沙門天が独立して本格的に信仰されはじめたのは唐の玄宗皇帝のころだとされる。宋の『嘉定赤域志』巻三十一によると、州治の後の天王堂が唐の天宝の初めに建つと記され、『淳熙三山志』巻三十六では福州吉田懸の大吉山資聖院は天宝六載(747)、僧尚志が天王院を創めたのに起こると記されている。
     前述のように兜跋毘沙門天の形式は西域地方に起源があるが、コータンの国王は毘沙門天の額の上から生まれた子の子孫だという伝承が伝わる。また、『図画見聞録』巻五相藍十絶第八には車道政に勅して、干国より北方毘沙門天像を伝えさせ、開元十三年(725)東嶽封ずる時、道政にその様に依って天王像を描かせたと記されている。

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    東洋日本美術史各論Ⅱレポート
    毘沙門天の形について―東寺像を中心とした考察
    1.はじめに
     毘沙門天は四天王の中では多聞天として表わされ、四天王から独立してからは毘沙門天として表わされることが多くなる。毘沙門の形には大雑把に分けてみると、毘沙門天、吉祥天、善膩師童子(不動明王、観音)と安置される三尊像形式と、足下に地天を踏む形式、普通の毘沙門天の形式と三つに区分できるように思われる。このように幾通りかの形式を持つことは同時にそれだけの異なった意味を持つのではないかと考えた。その中で、特に足下に地点を踏む形式のいわゆる兜跋毘沙門天に表わされることの多い藍婆、毘藍婆の二鬼について考察したいと考えている。
    2.兜跋毘沙門天の中国での受容について
     松本栄一氏「兜跋毘沙門天の起源」によると東寺の兜跋毘沙門天はコータンには七世紀ころの絵よりも古く、ラクワ塔址の塑像群があり、地中から出現した女神を足下にした、直立型のイラン式服装天部立像が残っていることから兜跋毘沙門天の起源は西域コータン地方にあるのではないかとする。また、松本文三郎氏は兜跋とは蛮夷服、左衽などを表わすもので、西蔵から中国に伝えられ...

    コメント1件

    zousan 購入
    毘沙門天研究でレポートを書いているのに、田辺勝美の研究に言及されていないのは、本を読んでいない証拠となるだろう。
    また、東寺の毘沙門天を取り上げるのならば、選考研究として岡田健論文がある。
    こうした基本的文献をおさえていないようでは、及第点は難しかろう。
    2005/10/27 15:45 (19年1ヶ月前)

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