フランスにおけるポジティブ・アクション―パリテ判決―
ヨーロッパ諸国において、女性を優遇する規定を設ける立法措置がなされている。性差別解消のために女性を優遇すると、一定範囲の男性がその性別ゆえに不利益を受ける可能性があることは否定できない。男女平等の観点からパリテ導入の理論背景を探り、どのような過程をへて、ポジティブ・アクションが行われていったのか。
・フランス革命と女性の権利との関係性
フランス共和国は1792年に王位が廃止され、王制はより抽象的で合議的なシステムである共和制におきかえられた(p14 L.2)大革命の最初の果実である1789年の人権宣言「人および市民の権利宣言」は「すべての人」が自由かつ権利において平等であること(第1条)、あらゆる政治的結合(政府ないし国家)の目的が、人の永久不可侵の自然権の保全にあること定めているものだった。(p16 L7)しかし、「すべての市民」に保障されたはずの「自らまたはその代表によって」法律の制定に参加する権利が、1791年憲法体制の下で制度的表現を得たとき、それは男子制限選挙制にしかすぎなかった。(p18 L15)その当時、女性は「物」扱いしかされず「フランス市民」とみなされなかった。(p21 L3)「男は仕事(社会)、女は家事(家庭)」という性別役割論議が、女性の政治的権利の否認の理屈付けとされ、1944年まで参政権を得ることができなかったのである。(p25 L8)フランス的普遍主義は女性の選挙権にとって障害となった。男女平等を保障した1946年憲法の前文は、1958年憲法の下でもなお、憲法的価値を有しており、1944年以来、女性には選挙権も被選挙権も承認されている。諸権利が形式的に平等に保障されていることによって、現実の処遇の形式が異なるというあからさまな性差別に対する批判は可能となる。
フランスの人権宣言は法律の前のすべて市民の平等を謳ったが、その実際の享受者は男性及び男性市民であった。人権宣言の約束が果たされないまま、女性は男性よりも貶められた地位に置かれ、公私を問わず、あらゆる領域で権利行使から排除され続けてきた。1944年のオルドナンスによって女性の参政権が認められた。初めての公務員一般規定である1946年10月27日の法律は、その第7条で、「あらかじめ定められていなければ、法規定の適用について,両性間にいかなる差別をしてはならない」と定めた。1946年憲法は、前文第3項で、「法律は、女性に対して、すべての領域において、男性のそれと平等な権利を保障する」と定めた。この規定は、いわば、人権宣言の権利の享受を女性にも認めるものである。女性は「市民」となり、「男性の権利」は「女性の権利」ともなった。
「クォータ制」の憲法違憲判決~「パリテ」の導入
フランスにおける性別クォータ制(性別割当制)の問題は、地方選挙導入をはかる1979年の選挙法改正案で提起された。憲法院が1982年11月16日に性別クォータ制に関する違憲判決を導いた際に依拠した規定は2つあった(p192 L7)1つは、1958年憲法第3条の主権行使と選挙に関する規定、もう1つは1789年人権宣言第6条の公務就任に関する規定である。
1982年憲法院は職権でクォータ制条項を審査の対象とし、選挙法典の「L265条に『性』という言葉を付加することは憲法に反すると判断した。理由はこうである。法律の第4条によれば「人口の3500人以上のコミューン議会は名簿式投票で選出され、選挙人は名簿記載の内容も順番も変更
フランスにおけるポジティブ・アクション―パリテ判決―
ヨーロッパ諸国において、女性を優遇する規定を設ける立法措置がなされている。性差別解消のために女性を優遇すると、一定範囲の男性がその性別ゆえに不利益を受ける可能性があることは否定できない。男女平等の観点からパリテ導入の理論背景を探り、どのような過程をへて、ポジティブ・アクションが行われていったのか。
・フランス革命と女性の権利との関係性
フランス共和国は1792年に王位が廃止され、王制はより抽象的で合議的なシステムである共和制におきかえられた(p14 L.2)大革命の最初の果実である1789年の人権宣言「人および市民の権利宣言」は「すべての人」が自由かつ権利において平等であること(第1条)、あらゆる政治的結合(政府ないし国家)の目的が、人の永久不可侵の自然権の保全にあること定めているものだった。(p16 L7)しかし、「すべての市民」に保障されたはずの「自らまたはその代表によって」法律の制定に参加する権利が、1791年憲法体制の下で制度的表現を得たとき、それは男子制限選挙制にしかすぎなかった。(p18 ...