風巻景次郎

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    風巻景次郎
    風巻 景次郎(かざまき けいじろう、1902年〈明治35年〉5月22日 -
    1960年〈昭和35年〉1月4日)は、日本の国文学者。

    兵庫県川辺郡神崎村(のち尼崎市)に伊達藩士・平田景儀の子として生まれ、生後すぐ京都市上京
    区の風巻平の妻・舞免の養子となる。生母・里の祖母は林子平の妹にあたる。養父・風巻平は里の
    次弟にあたり、舞免は伊達藩家老の長女である。風巻平は中央大学を中退後、横浜火災保険会社の
    京都支店長であった。その後養父の転勤に従い、金沢市、大阪市、名古屋市と移る。小学校時代を
    過ごした大阪では幼友達に恵まれ、当時出会った四方山径とは長く旧交を温めた。

    愛知県立第一中学校(のち愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て1926年東京帝国大学国文
    科卒業。愛知一中では小堀四郎と同期。八高在学中に石井直三郎の新古今集講義を受講して影響を
    受ける。東大時代はYMCAのメンバーとして寄宿生活を送り、1925年には石井直三郎を中心とした
    歌誌『青樹』を刊行。その後1932年頃までは短歌の実作も行い、当時の会員たちとは生涯の友とな
    った。東大国文科の同期には池田亀鑑、塩田良平、森本治吉、西下経一。

    1927年大阪府女子専門学校(のち大阪府立大学)教授に就任。この頃に後の学問の基礎を築く。19
    32年大松春子と結婚し、長野県女子専門学校(のち長野県短期大学を経て長野県立大学)教授に転
    任。

    1935年、病気を理由に依願退職して上京、東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺に住む。この頃、埴谷雄
    高と親交ができた(近所の親しい人の姪が春子夫人であったのが縁)。日本大学、日本体育会体操
    学校(のち日本体育大学)、二松学舎大学などで講師を務める。1936年、佐佐木信綱の好意により
    『新古今時代』を出版。同じ頃、藤村作の世話により東京音楽学校(のち東京芸術大学音楽学部)
    講師に就任。

    1938年、東京音楽学校教授。この頃は西郷信綱、丸山静などの東大生グループや、角川源義などの
    國學院大學生グループといった若い世代との会合が多かった。また音楽家との付き合いも増えた。
    1942年文部省勤務。1943年に目黒区駒場に転じ、中村真一郎ら一高グループと会合を持った。

    1944年清水高等商船学校(のち東京海洋大学海洋工学部)教授を経て、大東亜省海外派遣教員とし
    て奥野信太郎とともに北京輔仁大学に赴任。北京行きの際には、上海に行く阿部知二も同行してい
    た。在任中に敗戦を迎えて辞任。その後1946年4月の帰国までの間が、勤めから解放された自由な
    研究の時間だった。帰国後は近藤忠義の紹介で法政大学の講師を務めたのち、軽井沢の阿部知二別
    邸で『西行』の執筆に取り組む。1947年、久松潜一の推薦により北海道大学教授に就任。北大構内
    の景観を気に入り、構内官舎に11年間暮らす。1951年に高血圧を患う。在職中に九州大学や慶應義
    塾大学などからの招請があったが、教授会の留任運動により転任を諦めており、このストレスが高
    血圧を悪化させる。1957年附属図書館長。

    1958年関西大学教授に転任。1959年12月に『新古今時代』により関西大学から文学博士号を得る
    が、そのわずか1ヶ月後に心筋梗塞で急逝した。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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