古代大和朝廷の直轄領。稲を収納する倉を中心に,田地や耕作民を伴うようになり,大和朝廷の経済基盤となった。《日本書紀》によれば 4,5 世紀に大和朝廷の根拠地に近い大和,河内に屯倉が置かれるようになったが,それは池溝開発や築堤などの灌漑治水事業を前提とするものであった。たとえば仁徳 11 年に履田堤の造営が見え, 13 年に履田屯倉が置かれ,崇神 62 年に依網 池が掘られ,仁徳 43 年に依網屯倉の名が現れる。
屯倉について
古代大和朝廷の直轄領。稲を収納する倉を中心に,田地や耕作民を伴うようになり,大和朝廷の経済基盤となった。
〈みやけ〉の本義は、《古事記》に三宅,屯家などと記されているように,
(1)大和朝廷の政治的軍事的拠点としての建物そのものであり,
(2)倉や田地を伴うのは副次的性格であるとの見解も出され,
(3)また設置年代も《古事記》《日本書紀》の記事をそのまま信用することはできず,
とりわけ初期の開墾地系屯倉の実在は疑わしく,
開墾地系屯倉設置の画期は推古朝にあったとの研究もあり,
いまだその実態は十分解明できているとはいいがたい。
また 646 年 (大化 2) 正月の〈大化改新詔〉...