【輪読】第4章自動車事業における流れ作業への模索【ものづくりの寓話】

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    資料紹介

    輪読(和田一夫[2009]『ものづくりの寓話』名古屋大学出版会。)で担当した第4章の要約資料になります。

    資料の原本内容

    第4章 自動車事業における流れ作業への模索

    ―製造現場データとその利用―

    (和田一夫[2009]『ものづくりの寓話』名古屋大学出版会)
    目次
    1. 製造現場の改革と労働争議は無関係だったのか?

    2. 1950年労働議前後の状況

     2.1. 1950年代に本当にトヨタの製造現場で変化が起きていたのか?

      2.1.1. 生産設備の更新

      2.1.2. 一人当たり生産台数の変化

      2.1.3. 原単位の推移

      2.1.4. 機械の配置

     2.2. 生産設備の復旧

      2.2.1. 自動車事業継続の決断

      2.2.2. 臨時復興局による設備復旧

      2.2.3. 挙母工場の完全復旧

    .3. 製造現場の実態把握へ

    3.1. なぜ戦前の製造現場では仕掛品があったのか?

      3.1.1. 戦前のトヨタでは製造現場の実体をどのように把握しようとしていたのか?

      3.1.2. 問題解決の試みと失敗

     3.2. 製造現場の詳細データ把握

      3.2.1. 能率給の復活とその算定方式

      3.2.2. 「大野ライン」の起源

      3.2.3. 「大野ライン」は具体的に何をしたのか?

     3.3. トヨタにおける「合理化運動」

      3.3.1. 経営調査委員会から経営合理化委員会へ―別角度から見た「大野ライン」

      3.3.2. 企業合理化推進委員会への改変から労働争議への突入

      3.3.3. トヨタが合理化運動を展開した理由は何だったのか?

    3.4. 労働争議後の「歴史的な職制」

    3.4.1. 分散管理方式の意味

      3.4.2. 「歴史的な職制」とは具体定期にどのような組織だったのか?

      3.4.3. 「歴史的な職制」で何を実践したのか?

    3.5. 生産手当制度の概要とその運用

      3.5.1. 生産手当制度の概要

      3.5.2. 生産手当制度は実際に運用されたのか?

     3.6. なぜ生産手当制の実施に時間がかかったのか?

      3.6.1. 製造現場データ把握の焦点が「時間」になったのはなぜか?

      3.6.2. なぜ時間研究を行うのに時間がかかるのか?

      3.6.3. 標準作業とトヨタ
    本章の要点
    ・戦時中と異なる、戦後の1950年代におけるトヨタの状況を把握する

    ・仕掛品がラインの途中に堆積する状況をトヨタがどのように改革したのか

    ・製造現場を改革するにあたって、その実体をどのように把握したのか

    ・改革と労働争議には、どのような関係があったのか
    要約
    1. 製造現場の改革と労働争議は無関係だったのか?
     戦時下では、豊田喜一郎が提唱した「ジャスト・イン・タイム」は実現できなかった。仕掛品の山がラインのあちこちに見られる状況であった。つまり、材料や部品の準備やストックは良く考えてやらないと、無駄に資本を寝かせることになっていた。

     当時、工場内に仕掛品が堆積する状況は、トヨタに限らず世界的に見られた。しかしながら、トヨタは、現状を問題として認識し、解決に乗り出したのである。

     いわゆる「トヨタ生産方式」については、膨大な文献が発行されてきた。その中心は、1950年代に大野耐一が行っていた製造現場の改革(大野ライン)である。この時期は、ちょうど労働争議が頻発しており、一部の労働者が「大野ライン」を攻撃したエピソードが紹介されることもある。しかしながら、労働争議と製造現場の改革を関連付けて分析する視点はいままで見られなかった。

     製造現場を改革するにあたって、作業者は影響を受けるだろう。しかしながら、改革の影響を全ての従業員が賛成するとは限らない。この改革のもと、給与の遅配や切り下げが発端となり労働争議が発生したと仮定しよう。このとき、直接的な原因は、給与や雇用だが、間接的な原因は製造現場の改革にあると考える従業員が出現するかもしれない。つまり、改革に不満をもつ従業員が増大するのである。

     「大野ライン」を一部の従業員が攻撃したエピソードは、改革へ抵抗する不満分子の存在を端的に示している。では、経営陣はどのような対処を行ったのであろうか。仮に、製造現場の改革と労働争議が結び付いていたならば、両者を包括的に検討する必要があろう。
    2. 1950年労働議前後の状況
     2.1. 1950年代に本当にトヨタの製造現場で変化が起きていたのか?
      2.1.1. 生産設備の更新
     特需を受けた1950年代の設備の更新は、老朽化設備の更新といった側面を否めない。しかしながら、1950年代末に至っても、老朽化設備の割合は高かった。だからこそ、「このような投資規模では自動車生産設備の全面的な近代化は不可能であり、単なる応急的隘路補正にすぎなかった」という評価は妥当であろう。しかしながら、こういった応急処置に過ぎない設備投資でさえ、労働生産性を向上させることができた状況は、忘れることはできまい。
      2.1.2. 一人当たり生産台数の変化
     1951年9月以後から、従業員5000人台を維持して、生産台数を伸ばしていた。トヨタにおける1950年の労働争議の前後では、一人当たりの生産台数の向上と経費に占める労務費率が低下している。さらに、労働争議による人員整理のあとも、この傾向は継続しているのである。つまり、労働効率が改善されている可能性がある。
      2.1.3. 原単位の推移
     人海戦術によって生産台数を増やしていないことがわかった。では、他の資材を大量に投入して生産台数を増加させたのであろうか。しかしながら、生産台数の増加に対して、資材の消費量はそれほど増えていなかった。つまり、大量の資材を投入することで、生産台数を増加させているわけではなかった。
      2.1.4. 機械の配置
     人海戦術もなく、資材の大量消費もなく、1950年代のトヨタの生産現場は効率性が高まる傾向にあった。老朽化設備の大量更新は確かに生産性を工場させたが、機械の配置も大きな原因と考えられる。

     トヨタでは、機械設備を導入する前に、その配置について検討していたのである。さらに、必要に応じて機械そのものを変更していた。

     フォードですら、多忙の余り現場担当者は日誌をつけていなかった。しかしながら、トヨタでは、現場作業に関する記録をつけていた。
     2.2. 生産設備の復旧
      2.2.1. 自動車事業継続の決断
     敗戦直後、日本の自動車産業に関する展望は暗かった。ゆえに、トヨタでも上から下まで悲観的な展望を持つ者が多かった。豊田喜一郎でさえ、展望が見えず、一般従業員も、去る者が多かった。だからこそ、人員整理が予想以上にスムーズに行えたといえる。

     結局、豊田喜一郎は「自動車製造の専門工場の一本槍でどこまでも突進し、倒れて後止む」ことを「根本方針」とした。ところが、敗戦直後は、工場が被害をうけており、生産設備の復旧を行うことが先決だったのである。
      2.2.2. 臨時復興局による設備復旧
     生産設備の復旧にあたっては、鍛造施設の補強とともに、鋳造関連の施設を矢継ぎ早に復旧させていった。この過程で、トヨタは、1946年4月には、「臨時復興局」という社内部局を設置し、再建に取り組んだ。

     取り組みとしては、単に疎開させた機械を集めるだけではなく、新たな設備の増強も試みられた。記録から見えてくる実体からは、新型エンジンを搭載する新型車の製造用の生産設備を整えることを目指していたようである。
      2.2.3. 挙母工場の完全復旧
     臨時復興局の解散後も一年あまりは、掌母工場の再建は続けられた。戦後に、トヨタが新しい自動車を次々と発表していく原動力となったと考えられる。通常ならば、エンジン製造から車体製造、最終組立工程では、機械設備の新増設があったと推測される。しかしながら、実際は、機械工場・車体工場・組立工場の三か所では、既存設備の配置換えを行うことで合理化を図っていたのである。

      配置換えによる合理化を行うためには、データ収集と分析が不可欠である。だからこそ、敗戦直後から、製造現場には記録者がいたのではないか、という推測が成り立つ。
    .3. 製造現場の実態把握へ



    3.1. なぜ戦前の製造現場では仕掛品があったのか?
      3.1.1. 戦前のトヨタでは製造現場の実体をどのように把握しようとしていたのか?
     戦前の掌母工場では、「号口管理制度」が採用されていた。これは、計画係・仕掛係・調査係の三種に分かれている。計画係が、生産計画を立案し、仕掛係が、生産に携わり、調査係が、請負単位や工数の調査事務を行っていた。

     この号口管理制度は「最終組立ラインを基準として、これに各工程の進度を合わせて全体として流れ生産を目指した」と社史にて説明されている。が、実体としては、このような生産の平準化は達成できなかった。

     その本質的な要因は、能率給の仕組みとその運用であろう。なぜならば、能率給は、各請負組合を自らの都合で、部品の製造加工を行うように仕向けたである。その結果、最終製品に対して、部品が多すぎたり、少なすぎたりという現象が発生したのである。
      3.1.2. 問題解決の試みと失敗
     管理する側が、生産現場に関して極めて限定的な情報しか得られないとするならば、前述した部分最適化を抑えられないだろう。この想定の下、企業側が採り得る解決策としては2つ考えられる。一つは、能率給の仕組みを変えることである。もうひとつは、直接的な介入手段をとることである。

     前者は、インセンティブの与え方を変えることがまず考える。しか...

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