日本の金融政策と日本銀行

閲覧数5,218
ダウンロード数47
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    金融政策について
    金融政策とは、「中央銀行が各種の金融調節手段を活用することによって物価安定、経済成長、国際収支均衡などの政策目標を達成しようとする政策である。とくに、金融政策の運営にあたっては物価安定を基盤としたバランスのとれた持続的な経済成長といった視点が重要である。」と定義できる。 中央銀行 が行う金融面からの 経済政策 のことを指し、具体的には、 物価 や通貨価値の安定 又景気 対策の一環として、金融引き締め、 金融緩和 を行う。手段としては、 公定歩合 (金利政策)や 預金準備率 の変更、 公開市場操作 (Open Market Operation)がある。また、中間目標として マネーサプライ 、その結果としての 為替レート などが上げられる。
    日本の金融政策においては、日本経済の高度成長期である1960年代前後の金融政策は、公定歩合操作による金利政策が中心だった。その後、70年代の 田中角栄 による 日本列島改造計画 や オイルショック などによる インフレーション 、また、オイルショックの反動として起こった経済のゼロ、 マイナス成長 と、さらに為替レートが 固定相場制 から 変動相場制 に移行して為替の乱降下などが繰り返されるに及び、金融政策は物価、景気、為替などをそれぞれ同時に視野に置きながら、運営を行わなくてはならなかった。それ以降も、 金融自由化 、国際化、さらに 市場メカニズム に委ねる経済時代が到来して、日銀の金融政策は様々な政策手段を活用せざるを得なくなってきた。
    ここでは、金融政策の実際的な手段についていてみていきたい。
    第一の手段として公定歩合がある。公定歩合とは、日本銀行が金融機関に資金を貸し出すときの金利をいう。かつては、金融機関の預金金利や貸出金利が公定歩合に連動していたため、公定歩合を引き上げたり引き下げたりすることを通じてこれらの金利に直接働き掛けることが、金融政策の最も基本的な手段となっていた。その後金利の自由化が進展し、現在では、日本銀行がオペレーションを通じて資金の供給や吸収を行い、金融機関が日本銀行に保有する当座預金の総量を増減させることが、金融政策の主な手段となっている。一方、公定歩合は、平成13年(2001年)3月に導入された 補完貸付制度 に適用される金利となっており、金融市場におけるコールレートの変動に上限を画するという機能を担うようになっている。
    これに関連してゼロ金利政策というものがある。ゼロ金利政策とは、 1998年 、 バブル崩壊 後最悪の経済状況となる中で、金融政策においても緩和が求められることになり、1999年3月、 短期金利 の指標である無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15%に誘導することが決定された。このとき、当時の 日本銀行 総裁 速水優 が「ゼロでも良い」と発言したことからゼロ金利政策と呼ばれるようになったと言われている。日銀では、 デフレ 下とはいえ 金利 をほぼゼロにしてしまうのは経済における金利機能の低下をもたらし、 流動性の罠 をも招きかねないという考えがあった。このため、ゼロ金利政策はあくまで一時的で緊急の措置であり、すぐにでも解除したい構えであった。事実、景気の回復を受けての解除は今回が二度目である。
    ゼロ金利をとることでの経済への影響はどのようなものがあるのだろうか。施行時において、ゼロ金利政策を採用する効果は、中央銀行がこれ以上の金利を目標とした金融緩和ができなくなることを意味するため、 金融政策 が無力化するということである。現代経済における経済政

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    金融政策について
    金融政策とは、「中央銀行が各種の金融調節手段を活用することによって物価安定、経済成長、国際収支均衡などの政策目標を達成しようとする政策である。とくに、金融政策の運営にあたっては物価安定を基盤としたバランスのとれた持続的な経済成長といった視点が重要である。」と定義できる。 中央銀行 が行う金融面からの 経済政策 のことを指し、具体的には、 物価 や通貨価値の安定 又景気 対策の一環として、金融引き締め、 金融緩和 を行う。手段としては、 公定歩合 (金利政策)や 預金準備率 の変更、 公開市場操作 (Open Market Operation)がある。また、中間目標として マネーサプライ 、その結果としての 為替レート などが上げられる。
    日本の金融政策においては、日本経済の高度成長期である1960年代前後の金融政策は、公定歩合操作による金利政策が中心だった。その後、70年代の 田中角栄 による 日本列島改造計画 や オイルショック などによる インフレーション 、また、オイルショックの反動として起こった経済のゼロ、 マイナス成長 と、さらに為替レートが 固定相場制 か...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。