Ⅰ.はじめに
僕はこのレポートでは小熊英二・上野陽子共著『〈癒し〉のナショナリズム』(慶応義塾大学出版会)をもとに天皇制とナショナリズムについて考えてみたいと思います。
Ⅱ.背景
1990年代に入り、いわゆる「歴史認識」を巡る論争が日本のみならず世界で活発になりました。まずそこに到るまでの日本の歩みと歴史的背景について述べます。日本の「戦後」は1945年8月15日の敗戦に始まります。しかし、戦後の国民の意識には「敗戦」というのは「米国との敗戦」であるということが刻印され、米国と同じ連合国の一国であった中国にも敗北したということは忘却されました(それゆえにアメリカとの戦争は意識されても中国との戦争は影が薄い)。また、戦前の日本が朝鮮や台湾を植民地にしていたことも忘却されてしまいました。
日本は占領を経て1951年にサンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約を締結し、翌年独立を回復しました。日本は早くから米国の冷戦戦略に取り込まれ、米国との関係強化・日米談合体制のもと経済発展を目指しました。そのためアジアとの関係回復よりも日米関係が重要視されることになったのです。また原爆投下やシベリヤ抑留という被害経験が優先し、加害責任の存在がぼかされてしまいました。
昭和天皇の戦争責任にも決着を付けることができずに、日米安保体制のもとで平和憲法と象徴天皇制の同居があり、一国内的な五十五年体制を続けることになりました。戦後の混乱から講和、独立そして五十五年体制で政局が固まったのです。革命政党だった日本共産党も55年の第六回全国協議会で武装闘争方針を放棄し、議会制民主主義の枠内での政権掌握を目指すことを決定しました。そのために日本とアジア諸国との関係改善はうやむやなまま冷戦構造に入っていきました。東南アジア諸国で台頭した軍事独裁政権は冷戦下での国家戦略上、日本と背後にある米国からの援助協力のかわりに戦争被害者の声を抑圧しました。日本政府は戦争被害者の声が抑圧されえているのをいいことに二国間条約の締結(日華平和条約、日韓基本条約など)を通じて政府間の国家賠償を達成したのですが、個人補償は行いませんでした。89年に昭和天皇が死去し、彼の戦争責任に決着を付けることができないまま「平成」に移行します。93年には戦後政治の枠組みを作っていた五十五年体制が崩壊しました。
その頃、日本における価値観の動揺や社会不安の増大を背景に「新しい歴史教科書とつくる会」が結成されました。
Ⅲ.団体の特徴
「新しい歴史教科書をつくる会」とその支部である「新しい歴史教科書をつくる会神奈川県支部有志団体史の会」(以下「史の会」)の特徴について述べます。
Ⅲ-ⅰ.「つくる会」について
まず「つくる会」の特徴として以下の二点があります。
①「健全な常識」「健全なナショナリズム」を掲げる
②彼らのナショナリズムには天皇の存在が希薄である
①について言うと当初、「つくる会」は従来の進歩派/保守派のいずれにも与さない第三の集団であり、官僚やエリートのような思想ではない「健全な常識」に依拠するとしていた。小林よしのり氏は官僚や市民のモラル低下を憂えていたし、藤岡信勝氏は左・右のいずれでもない「自由な史観」を論じていました。
しかし年長の保守派がこの集団に接近し、彼らの言うところの進歩派から批判を受けたことにより、彼ら自身が自らを「保守派」と位置づけることになりました。そのため論調は従来の保守派の焼き直し的なものになり「健全な常識」から「健全なナショナリズム」を唱えるようになっていったのです。
レポート、政治学、ナショナリズム、天皇制、新しい教科書をつくる会
Ⅰ.はじめに
僕はこのレポートでは小熊英二・上野陽子共著『〈癒し〉のナショナリズム』(慶応義塾大学出版会)をもとに天皇制とナショナリズムについて考えてみたいと思います。
Ⅱ.背景
1990年代に入り、いわゆる「歴史認識」を巡る論争が日本のみならず世界で活発になりました。まずそこに到るまでの日本の歩みと歴史的背景について述べます。日本の「戦後」は1945年8月15日の敗戦に始まります。しかし、戦後の国民の意識には「敗戦」というのは「米国との敗戦」であるということが刻印され、米国と同じ連合国の一国であった中国にも敗北したということは忘却されました(それゆえにアメリカとの戦争は意識されても中国との戦争は影が薄い)。また、戦前の日本が朝鮮や台湾を植民地にしていたことも忘却されてしまいました。
日本は占領を経て1951年にサンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約を締結し、翌年独立を回復しました。日本は早くから米国の冷戦戦略に取り込まれ、米国との関係強化・日米談合体制のもと経済発展を目指しました。そのためアジアとの関係回復よりも日米関係が重要視されることになったのです。また原爆投下やシベ...