一個の作品として成り立っている小説の多くは、それが実際のことであれ、架空のことであれ、すでにおきた過去の出来事として作者によって整理され、構成されて描かれたものである。その意味で、小説のテンスは、すべて過去形で示されていてもおかしくないはずのものである。しかし一方で読み手によって読まれたとき、その出来事は再現され、疑似体験されるものである。この点で、文章中に意味的、文法形式的に「現在」が持ち込まれることも、決して不思議なことではない。それどころか、書き手の「時」の流れと読み手の「時」が交錯することはごく普通に見られるといってよいだろう。
小説の中では、このように過去のことを述べるのに、表現上の効果を狙って非過去形(以下「ル形」)が用いられることは、すでに多くの論文で指摘されている。(特に日本語の場合英語などと比べ、顕著だという指摘もある)また、こうした表現方法が作者の視点とのとらえることで、関係から説明されることもしばしば見られる。私の立場はこの見方自体を直観に合った、有効なものと基本的にみとめるものである。だが、文章中に「ル形」が表れる現象は、歴史的現在形による劇場効果、あるいはその場面にいる登場人物の視点から描いた臨場感をねらった、作者の表現意図から選ばれた結果ととらえることで、十分説明されたことになるのか、その点に疑問もある。
<研究目的>
今回、この「注文の多い料理店」における時制、アスペクトの現れ方に関して、文章構成や表現と文法的な観点から再考するものである。
<方法>
以下、注文の多い料理店の本文を具体的に観察、分析するにあたり、次の3点に注目する。
1・文章例中の「タ形」「ル形」は、小説が語られる過程のうち、状況、出来事のいずれと結びついたものかを調べる。これは主に状態、継続、完了の相に関する観点である。
2・それぞれの形式による表現および文章構成上の効果はどのようなものか、語り手の視点との関連から考察する。
3・一方でこれらの形式が文法的な制約や許容度とどう関わるかを個々に調べる。
以上のうち、1,2、についてはあらかじめ整理しておく必要がある。まず1であるが、物語は大きく出来事と場面である状況とに分けられる。物語の進行を出来事の連続から成る横軸とすると、状況は縦軸にあたるものであり、出来事の前提や、出来事の場面や、登場人物の心理を含む様々な状態描写から成るものである。この状況は、何がどうだ、何がどうしているか、ということを述べるものであって、静的な述語を伴ったり、状態性のアスペクトと結びついて現れたりすることは多いが、変化を除けば完了という概念は要求されにくい。これに対して、出来事は状況に包まれた、物語の出来事の一つ一つ、あるいは、さらに一つの大きな単位となったものとしての出来事であって、それが個々に完了することによって、物語が次に進められていくという性質を持つものである。また、これは誰が何をどうした、ということをのべ、動的述語を伴って示されるものであるが、アスペクト、特に完了と深く関わるものと考えられる。それは文章において、ひとつの出来事が完了して初めて次の出来事に進むためである。
状況も、出来事もともに語り手の読み手に対する語りの時を基準とすれば主に過去時制(過去において存在したという意味での状況、出来事の時制:語り時を基準とした出来事の時制)がそこにかぶさってくることは当然考えられる。
次に2は視点の概念に関する用語の整理である。一般に、語り手の視点を考える際には、何を見ているかその見ている対象(以下、注視点)と、誰の目
一個の作品として成り立っている小説の多くは、それが実際のことであれ、架空のことであれ、すでにおきた過去の出来事として作者によって整理され、構成されて描かれたものである。その意味で、小説のテンスは、すべて過去形で示されていてもおかしくないはずのものである。しかし一方で読み手によって読まれたとき、その出来事は再現され、疑似体験されるものである。この点で、文章中に意味的、文法形式的に「現在」が持ち込まれることも、決して不思議なことではない。それどころか、書き手の「時」の流れと読み手の「時」が交錯することはごく普通に見られるといってよいだろう。
小説の中では、このように過去のことを述べるのに、表現上の効果を狙って非過去形(以下「ル形」)が用いられることは、すでに多くの論文で指摘されている。(特に日本語の場合英語などと比べ、顕著だという指摘もある)また、こうした表現方法が作者の視点とのとらえることで、関係から説明されることもしばしば見られる。私の立場はこの見方自体を直観に合った、有効なものと基本的にみとめるものである。だが、文章中に「ル形」が表れる現象は、歴史的現在形による劇場効果、あるいはその...