私が教師になった場合、どのような授業を展開するか。それを述べるためにも、まず現代文学が本当に教育を行う上で必要なのか、白瀬浩司氏の実践例を踏まえながら考察してみようと思う。一般に教科書に取り上げられる文学作品は「安定教材」と呼ばれ、主に夏目漱石、芥川竜之介、中島敦等の作品が取り上げられてきた。作品でいう所の『こころ』『舞姫』『羅生門』『山月記』等である。これらの作品は各社の教科書に採用され続けてきた。こうした状況に対して、戦後早い時期から現場の教師達は、教科書教材をこなしながら、さらに戦後の状況をとらえた現代文学の作品を教室に持ち込み教材がしてきた。それ80年代になると、よりいっそう現代をリアルタイムで映し出した作品を教材化しようという動きになってきた。近代文学の「古典」と言われている作品を教えているだけでは、今日の生徒たちが直面している課題や問題に対処できるのかという疑問がその原動力だった。そうした動きは、90年代後半に入ると「定番教材」を「男子生徒を想定」した「男性原理」に基づく作品であるといった批判が紅野謙介氏やフェミニズム運動側から起こったりしたこともあり、最近では現代文学の作品が教科書の主流を占める事態にまでなってきている。ここで私の意見を掲示したいが、そもそも私は高校生であった当時から、現代文の授業は果たして本当に今の日本にとって必要なのかと何回も考えたことがある。なぜなら、ただ単に授業がつまらない、面白くないといったマイナスイメージもたしかに抱いていた背景はあるにしろ、教える教師側が現代文の意義について理解していないように思えたからだ。「現代」は実際社会においてもとても奥が深く、それこそ社会をすべて理解している者なんてこの世に誰一人として存在しないわけである。国語の授業においては、中学時代から内容が「現代文」と「古典」の2種類にわけていた理由はなんだろう?とっかかりは文字の意味の違い、仮名遣い尾の違いからとても避けられがちだが慣れてくると単調に、数学式に文の意味がわかり、問題も単調な正解が明暗に現れている「古典」と、とっかかりこそとても慣れ親しんだ現代文であり、一般的な意味こそ感覚で答えるものはできるものの、問題にされると極端に幅が広すぎて、著者の的を射た解答をするのは困難な「現代文」。それこそ現代文の授業は理解し難いものであるから無くしてはしまった方がいいのではないかと考えた事もあった。しかし、もし現代文を教える事がなくなってしまえば人は今の日本は確実に先進国から見放されるだろう、言い換えれば、古来育まれてきた繊細な感情を3種類の文字を使って表す美しい日本は終わってしまうだろう。外国の文学をはじめ、文化に圧迫され次第に外部の色に染められることによってできた「日本」ができてしまう。私はそんな世間を決して日本だとは呼びたくない。要するに第一に「日本から現代文をなくしたくない理由」は、日本古来の美しさ、繊細な感情を言葉豊かに表現する日本人の意識を失いたくないということである。また、最近社会を騒がせている時事問題を照らし合わせてみるとモラル・ルールの喪失または低下が著しく目立ってきていると私は感じる。授業でも取り扱った事件では、小学校高学年の生徒が同級生を殺害するという非常にいたたましい事件等が代表的な例である。あの事件では加害者の少女は明らかに相手に対しての関心や、心を知ろうとする努力が欠如していたと私は考えた。この事件と現代文の授業、直接的には全く関係のないように見えてしまうが、背景的には結びついていると考えてよいと思う。なぜなら、現
私が教師になった場合、どのような授業を展開するか。それを述べるためにも、まず現代文学が本当に教育を行う上で必要なのか、白瀬浩司氏の実践例を踏まえながら考察してみようと思う。一般に教科書に取り上げられる文学作品は「安定教材」と呼ばれ、主に夏目漱石、芥川竜之介、中島敦等の作品が取り上げられてきた。作品でいう所の『こころ』『舞姫』『羅生門』『山月記』等である。これらの作品は各社の教科書に採用され続けてきた。こうした状況に対して、戦後早い時期から現場の教師達は、教科書教材をこなしながら、さらに戦後の状況をとらえた現代文学の作品を教室に持ち込み教材がしてきた。それ80年代になると、よりいっそう現代をリアルタイムで映し出した作品を教材化しようという動きになってきた。近代文学の「古典」と言われている作品を教えているだけでは、今日の生徒たちが直面している課題や問題に対処できるのかという疑問がその原動力だった。そうした動きは、90年代後半に入ると「定番教材」を「男子生徒を想定」した「男性原理」に基づく作品であるといった批判が紅野謙介氏やフェミニズム運動側から起こったりしたこともあり、最近では現代文学の作...