日系ブラジル人の還流現象

閲覧数2,664
ダウンロード数16
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    日系ブラジル人の歴史‐日本への還流後子供たちが抱える問題
     ブラジルへの移民は、1908年4月18日の笠戸丸に始まる。791人の移住者の内、自由移民は10名のみであった。
     1888年ブラジルでは奴隷制が廃止された。そのためコーヒー農場での労働力を奴隷からコロノ移民と呼ばれるヨーロッパからの契約移民に求め受け入れた。しかし、劣悪な状況下での労働は移民の不満を呼んだ。ドイツやイタリアといった移民送り出し国の政府は、「奴隷同様の移民送り出しには協力出来ない」と、出国を停止したりした。
    そこで、労働力不足に悩んでいたコーヒー農場主とブラジル政府に、当時アメリカ合衆国から日本人移民を締め出されて困っていた、皇国殖民会社が、日本人移民の受け入れを売り込んでいった。
     やがてサンパウロ州政府と契約調印し、毎年1,000人の農業移民をブラジルへ送り出すことで一致し、日本国内での移民募集を開始した。移民の条件の中に、「移民は夫婦を中心に、12歳以上の子供か夫婦の兄弟姉妹を含む三人以上の家族であること」というものがあった。皇国殖民会社はこの家族の条件を満たすため、移民希望者の中の独身者たちを名目上の夫婦・親子・兄弟にしたりした。
     彼らは当初出稼ぎ労働者としてブラジルへ渡ったが、コーヒー生産の他に、野菜、お茶、まゆ、綿花を生産する中で生活にゆとりが生まれ、12万5千人が自作農として定住することになった。こうして、日系人コミュニティーが形成される。日系人の教育関心は非常に高く、1930年には公認の日本人学校が127校でき、1916年には日本語新聞も発行された。
    戦後には移民総数は25万人に達したが、その子孫である2世3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多い。そのケースはブラジル及びラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるサンパウロ大学の学生のうち、約15%が日系人の子弟であるという事実からも垣間見ることができる。
     日系ブラジル人の還流現象は1970年代以降から始まる。ブラジルが激しいインフレーションに見舞われ、特に1980年代の「失われた10年」では年間に価格が18倍に上がり、ブラジルの経済は波状し、都市・農村間格差に加え、都市内部の階層・経済格差を拡大し、「中産階級」の崩壊を招いたのだ。極度のインフレに対応できなくなり、これまでの経済的・社会的地位を維持できなくなった人々や社会的な上昇への期待が持てなくなった人々は出稼ぎを余儀なくされた。ブラジル社会で中産階級の地位にあった日系人の出稼ぎも同様にして始まる。1990年3月、ブラジルで実施された経済政策の骨子としての預金凍結は長引くインフレに対応してきた人々を直撃し、「出稼ぎ多発化」の直接の契機となる。そこへ日本の高度経済成長の達成による社会構造の変化、それに伴う製造業を中心とした深刻の労働力不足に対応するための1990年6月の出入国管理及び難民認定法施行により2世、3世の就労が可能になるという日本側からの援護射撃も加わり、空前の「デカセギ・ブーム」が訪れる。デカセギの形態も、当初の「男性単身型」から「夫婦型」へ、さらに「家族呼び寄せ・帯同型」へと移行し、1990年から92年には、日系ブラジル人の子供たちが日本の学校に急増し始める。
     日系人の就労は派遣・請負などによる間接雇用が中心だ。日系人の間接雇用の問題点は、同じ短期派遣の臨時雇用でも、総じて日本人よりも不安定で保障が少ない場合が多いことである。雇用契約期間が定められていなかったり、失業保険を回避するために3ヶ

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    日系ブラジル人の歴史‐日本への還流後子供たちが抱える問題
     ブラジルへの移民は、1908年4月18日の笠戸丸に始まる。791人の移住者の内、自由移民は10名のみであった。
     1888年ブラジルでは奴隷制が廃止された。そのためコーヒー農場での労働力を奴隷からコロノ移民と呼ばれるヨーロッパからの契約移民に求め受け入れた。しかし、劣悪な状況下での労働は移民の不満を呼んだ。ドイツやイタリアといった移民送り出し国の政府は、「奴隷同様の移民送り出しには協力出来ない」と、出国を停止したりした。
    そこで、労働力不足に悩んでいたコーヒー農場主とブラジル政府に、当時アメリカ合衆国から日本人移民を締め出されて困っていた、皇国殖民会社が、日本人移民の受け入れを売り込んでいった。
     やがてサンパウロ州政府と契約調印し、毎年1,000人の農業移民をブラジルへ送り出すことで一致し、日本国内での移民募集を開始した。移民の条件の中に、「移民は夫婦を中心に、12歳以上の子供か夫婦の兄弟姉妹を含む三人以上の家族であること」というものがあった。皇国殖民会社はこの家族の条件を満たすため、移民希望者の中の独身者たちを名目上の夫婦...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。