ペドロ・アルモドバル監督作品『アタメ』に対する考察

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    資料紹介

    スペイン語圏の映画/文化/社会・映画リポート
    ペドロ・アルモドバル監督作品『アタメ』
    (ⅰ)この作品を私が選んだ理由
    私は、以前同監督作品である『オール・アバウト・マイ・マザー』と、『トーク・トゥ・ハー』を見て、形容し難い感動を覚え、不思議でかつ後を引く印象を受けた。それまで私が見てきた大胆で迫力はすごいものの、ただの娯楽でしかないようなハリウッド映画とは、何かが明らかに違った。そしてその後数日、映画の印象が体中を占めてしまうという変な現象を体験したのだ。その時から一度ペドロ・アルモドバルという人物の作品を深く検証してみたいと思っていたのである。これが、私がこの作品を選んだ一つ目の理由である。
    次に、『トーク・トゥ・ハー』で示されていた看護士ベニグノの、異様ではあるが献身的な愛の形を見て、私は人を愛するということはどういうことなのかについて考察した。
    ある側面から見れば正常で純粋な愛の形は、別の側面から見れば変質的でストーカー的なものなのかもしれないと。そしてアルモドバルは極端な形でそれを描き出そうとしているのではないだろうかと。授業で『アタメ』の一部を見て、私は『トーク・トゥ・ハー』のベニグノと『アタメ』のリッキーは何かリンクするものがあるように思った。そのことについても考察してみたいと思ったのである。
    (ⅱ)この作品の主題に対する考察
    では、アルモドバル映画の特徴と絡ませながら、この『アタメ』について考察し、言及していきたいと思う。特徴や主題については、杉浦先生が授業で仰っていたことを参考にさせていただきながら、自分の主張も混ぜつつ考えていきたい。
    まず、この作品の要ともなっているリッキーがマリーナに対してする監禁、そしてリッキーの愛にマリーナが心を開いていく過程について考えたいと思う。リッキーが暴力的な行為を行い、マリーナを縛り上げ、監禁してしまうのは一見男性中心的で、家父長的なものを彷彿させる。それでもし、マリーナがそれに屈してリッキーと結婚したりすれば、それは確かに男性中心的なものをにおわせる映画になってしまったかもしれない。実際、ある種『欲望の法則』のラストで2人が抱き合うシーンで流れるラテンの音楽の如く、それを逆手にとって、変に如実に描き出そうとしているところはあるのかもしれない。しかし、この映画ではリッキーの純粋で不器用な愛や、彼の優しさや寂しさを感じることで、マリーナは彼に心を開いていっているのである。
    それは、先程上で述べた人を愛するということの2つの側面に関係しているのではないだろうかと私は思う。つまり、一方で縛り上げることでしか彼女を自分のものに出来ない異様で変質的な愛に見えるものは、もう一方では純粋で献身的な愛の形でもあるのだ。このあたりがこの『アタメ』と『トーク・トゥ・ハー』とがシンクロする点である。2つの映画を通して私が感じたことは、一般的に気持ち悪いものと正常なものとのラインの上ギリギリに、真実の愛があるのではないだろうか、ということである。またそれをアルモドバルは特異な人物設定、状況設定によって我々に示してくれているのではないだろうか。
    ところで、授業ではジェンダー/セクシュアリティーという観点からこの映画の核心に迫っていた。それは非常に興味深い内容であり、啓蒙させられるものであった。この次は私もこの観点からこの映画の主題について考えてみたいと思う。
    ジェンダーフリーの面から見ると差別的な考え方になるが、一般的に献身的に愛をささげるのは女性の役割とされている。しかし、この映画では、その役割は男であるリッキーが担っ

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    スペイン語圏の映画/文化/社会・映画リポート
    ペドロ・アルモドバル監督作品『アタメ』
    (ⅰ)この作品を私が選んだ理由
    私は、以前同監督作品である『オール・アバウト・マイ・マザー』と、『トーク・トゥ・ハー』を見て、形容し難い感動を覚え、不思議でかつ後を引く印象を受けた。それまで私が見てきた大胆で迫力はすごいものの、ただの娯楽でしかないようなハリウッド映画とは、何かが明らかに違った。そしてその後数日、映画の印象が体中を占めてしまうという変な現象を体験したのだ。その時から一度ペドロ・アルモドバルという人物の作品を深く検証してみたいと思っていたのである。これが、私がこの作品を選んだ一つ目の理由である。
    次に、『トーク・トゥ・ハー』で示されていた看護士ベニグノの、異様ではあるが献身的な愛の形を見て、私は人を愛するということはどういうことなのかについて考察した。
    ある側面から見れば正常で純粋な愛の形は、別の側面から見れば変質的でストーカー的なものなのかもしれないと。そしてアルモドバルは極端な形でそれを描き出そうとしているのではないだろうかと。授業で『アタメ』の一部を見て、私は『トーク・トゥ・ハー』...

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