心理学史
1879年、ヴントはライプチヒ大学に心理学実験室を創設し、諸科学の中から心理学を独立した学問として誕生させた。ここに至るまでに、どのような思想や諸科学の変遷があったのだろうか。
人間の心に関する思想は、古くから人類の普遍的営みとしてあった。人間には魂が宿っており、死んで体が朽ちても、魂自体は不滅なものであると考えられていた。そして、王や貴族たちは墓を建て、祈りを捧げることで死者の魂を弔った。これは、身分の高い者だけがすることであって、身分の低い奴隷などには、そもそも魂が存在しないとされていた。
やがて、宗教が登場すると、神によって全ての者に魂の存在が認められるようになった。そして、人間の心やそこから生じるものについて、全て神に関連づけて説明する思想に人々が支配されるようになった。
17世紀になると、人々の生活は豊かさを増し、個人個人が自己の利益を追及するようになった。そして、神に頼るのではなく、自己の経験と理性を重んじる方向に、時代の思潮が転換した。ベイコンは、自己の経験に基づく認識から、真理の発見を目指す経験論を主張した。デカルトは、自己の理性に基づく直感から、真理の発見を目指す合理論を主張した。こうした哲学的思想が、科学としての心理学の思想史的前提となっている。
経験論はイギリスのロック、ハートレイらに受け継がれる。ロックは、人間の心を白紙(タブラ・ラサ)と仮定し、知識は経験から成り立つと考え、生得観念の存在を否定した。ハートレイは、いかなる複雑な観念も感覚から生じると考え、心理過程を神経線維の振動により説明した。外界からの刺激が感覚器官に伝わると神経系が振動を起こし、それが脳に感覚をもたらす。振動はやがて減衰して微振動になり、それに観念が対応する。例えば、ペンを見たという情報が神経に伝わり、インクとノートの観念が浮かぶ。
これを連合の法則という。心の成立を形而上学ではなく、経験から説明しようとした点に意義があるが、心理学誕生には、実験的な研究が不足していた。
19世紀、資本主義社会の発達により、工業化が進み、一度に大量の死傷者を出す事故が発生するようになった。被害者の中には、惨事トラウマという心の病を負う者おり、医学が心の問題に取り組む動機が生まれた。それは、医学だけでなく生理学、生物学、物理学といった諸科学にも広がっていった。事象の法則のみを追及していた科学者たちが、人間自身の問題にも注目するようになったのである。
生理学者ウェーバーは、「違いが認識できる最小の単位を丁度可知差異と名づけましたが、この丁度可知差異は重りを持ち上げて測定する際には標準刺激の40分の1で、つまり40グラムが標準刺激のときには41グラムでも重さの違いが分かるが、200グラムのときには205グラムまで重くしないと重さの違いがわからないことを導き出した。」¹この丁度可知差異が標準刺激の大きさによって決まる発見をウェーバーの法則という。
フェヒナーは、心と体の関係を数量的な対応関係で表す精神物理学の研究をした。ウェーバーの研究を引き継ぎ、感覚が等差級数的に増加するためには、刺激を等比級数的に増やさなければならないと考えた。つまり、感覚の大きさは絶対的に比例せず、刺激の大きさの対数に比例するというのだ。そして、ある刺激の変化自体がわかるために必要な刺激強度を弁別閾と呼び、ある刺激の存在自体が感知される最小の刺激強度を絶対閾とした。フェヒナーは、閾値を決定するために「丁度可知差異法」「当否法」「平均誤差法」の種類の測定方法を考案した。²
このような自然科学による実証的・実験的研究の蓄積が、科学としての心理学の誕生の根底にある。ヴントは、科学としての心理学は自然科学を補完するという。「あらゆる個々の事実は、自然科学と心理学の両方で分析した後、初めて、その完全な意味を理解することができる。この意味で物理学と生理学は心理学の補助科学であり、心理学は、自然科学を補うものである」。(『心理学概論』1896)
参考文献 1、流れを読む心理学史 世界と日本の心理学 サトウタツヤ・高橋美樹 著 有斐閣アルマ 22頁
2, 同 23頁