「歌曲」のシューベルト
~「魔王」に寄せて~
■調査動機
今回の音楽史のレポートのテーマとしてシューマン、ヴォルフ、そしてシューベルトの3人の作曲家が挙げられた。その中で私はシューベルトを取り上げるわけだが、ここではそれに至った理由について書きたいと思う。
まず私自身、幼少の頃からピアノを習っており今現在に至っても趣味で続けているという経緯がある。その中でクラシックに触れることも多く、ショパンやリストなどを弾いた。シューベルトを実際に弾いたことはなかったのだが、耳にすることはあった。ただそれはピアノ曲のシューベルトであった。
前期の音楽史の授業を履修し、初めてシューベルトが歌曲において偉大な功績を残していることを知った。そしていくつかの作品をきくことができ、特に「魔王」に感銘を受けた。退屈に感じがちなクラシックであるが思わず聞き入ってしまった。小中学校の教科書にも載っているほど有名であるという「魔王」であるが恥ずかしながら私はそれを知らなかった。とにもかくにもこのようにして私の中にあったピアノ曲のシューベルトのイメージは変わった。
そこでこのレポートではこの授業を通して知ることができた「『歌曲』のシューベルト」が一体どのような人物であったのか。そして「魔王」の詳細について取り上げたいと思う。
■生涯
私にとっては実際名前程度しか知らないシューベルトである。そこでまずシューベルトという人の生涯を確認してみることから始めたいと思う。
1797年1月、ドイツのウィーン郊外に生まれた。(余談であるが、ウィーンといえばベートーヴェンを思い起こさせる。今回調べている過程で実際シューベルトとベートーヴェンに親交があったことを知ることが出来た)1808年に宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、国立寄宿学校「コンヴィクト」に入学する。
この当時からすでにシューベルトは非凡な才能を発揮していたという。シューベルトの友人、フォン・シュパウンは「あの子には神があらかじめ何もかも教え込まれたのだ」 という言葉を残している。
その後ドイツは戦争への道を進んでいく。シューベルトは兵役を逃れるため父の跡を継ぎ教員となる。1816年には教員をやめ作曲活動に専念していく。
こうしてシューベルトは1828年にこの世を去るまでに多くの歌曲、交響曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲を残した。特にすぐれた歌曲が有名で「ドイツのリート(歌曲)王」とよばれる。
また1963年にドイツのカッセルに「シューベルト協会」が創設され、従来混乱のあった作品番号を整理した校訂楽譜の出版を開始した。
■初期の歌曲
シューベルトの歌曲は全部で600曲以上に及ぶ。だがシューベルトの存命中に発表されたのは全体の1/3程度であった。彼の死後、資料の発掘が行われ死後20年で150曲の歌曲が出版された。
その後も発掘作業は続き、18世紀末にはアンリ・ド・キュルゾン(フランスの音楽学者)とグローヴ(イギリスの音楽学者)が603曲の歌曲を数え上げた。
シューベルトが初めて書いたとされる歌曲「ハガールの嘆き」は1811年に書かれている。彼が14歳のときである。この年はこれ以外にもう3曲書いている。そして翌年の1812年には3曲、1813年には11曲の歌曲を書いている。
そして14年には更にペースが上がり127曲、15年には145曲もの歌曲を書いている。15年の145曲のうち29曲は4月の一ヶ月間に書かれ、そして更にそのうち8曲は4月15日の一日だけで書かれたという逸話もある。(またシューベルトは1815年にそれぞれ2つ
「歌曲」のシューベルト
~「魔王」に寄せて~
■調査動機
今回の音楽史のレポートのテーマとしてシューマン、ヴォルフ、そしてシューベルトの3人の作曲家が挙げられた。その中で私はシューベルトを取り上げるわけだが、ここではそれに至った理由について書きたいと思う。
まず私自身、幼少の頃からピアノを習っており今現在に至っても趣味で続けているという経緯がある。その中でクラシックに触れることも多く、ショパンやリストなどを弾いた。シューベルトを実際に弾いたことはなかったのだが、耳にすることはあった。ただそれはピアノ曲のシューベルトであった。
前期の音楽史の授業を履修し、初めてシューベルトが歌曲において偉大な功績を残していることを知った。そしていくつかの作品をきくことができ、特に「魔王」に感銘を受けた。退屈に感じがちなクラシックであるが思わず聞き入ってしまった。小中学校の教科書にも載っているほど有名であるという「魔王」であるが恥ずかしながら私はそれを知らなかった。とにもかくにもこのようにして私の中にあったピアノ曲のシューベルトのイメージは変わった。
そこでこのレポートではこの授業を通して知ることができた...