1.大学のはじまり
大学のはじまりは、12世紀で、基本的に講師は職業の資格認定・教育訓練の独占・国王や教皇の勅許状による専門職のギルドだった。ボローニャ大学では、学生組合(ストゥディウム)と教師の組合が別にできていた。
大学の近代化はベルリン大学の創立をもって始まりとする。それ以前の大学は、「中世大学」あるいは「近世大学」であり、それらは18世紀には沈滞の極地にあったために、従来型の大学とはまったく異なった原理でベルリン大学を作り、それが、近代大学の出発点となった。
18世紀の大学は沈滞の極地であったというのは、18世紀に科学と産業化による大学の危機がおこったからだ。18世紀にはいり大学が、研究するためには国家の費用が必要不可欠になってしまった。それは、科学研究の進歩により、研究のために必要な設備が、それまでよりより大掛かりに、またより高価になったからである。たとえば、原子の研究を例に取ることができる。原子の研究には、原子炉が必要不可欠であるが、それを大学だけでまかなうことはできない。つまり、国家の補助がなければ、研究が行えなくなるという事態になってしまったのだ。
また、自然科学などの新しい学問の研究の場として「アカデミー」台頭が起こる。つまり、大学は、研究する場なのかそれとも教える場なのかという議論である。それまでは、研究というよりは教える場であるという側面が強かった大学に、研究する場というアカデミーが台頭する。加えて、産業化による新しい専門職業人という技術者に対して、大学は保守的だったために、大学外にどんどん新しい学校ができてしまった。大学での教育ではく、より専門的な教育である。
最終的に、もっとも大きな危機は、フランス革命による大学の解体である。フランス革命の社会主義体制の中で、大学の存在が認められなかった。ギルドは、私的な存在であるため、社会主義にとっては害悪となってしまう。大学は私的なものではなく、国家のものであるという風に考えられるようになる。つまり、それまでの大学にたいする考え方が、フランス革命によって変化し大学が解体してしまったのだ。
2.ベルリン大学
そんな中で、ベルリン大学が創立され、大学の近代化が始まった。ベルリン大学の構想を練ったのはフンボルト兄弟であり、ベルリン大学はフンボルト理念にしたがって作り上げられた。フンボルト理念とは、研究と教育の統一・さまざまな学問の統合、研究の重視、高度な教育が人格の陶冶につながるという新年、学術・科学・人間形成を政府の責任事項として強調している点、大学運営に要する経費を国庫から直接支出する「国立大学」方式が、ベルリン大学のもとに登場したこと、教授の選考を学部教授会に任せずに、国家行政機構のもとに置いたことの7つである。
ドイツのベルリン大学では、哲学部の格上げ、自然科学研究・教育の充実がなされ、後に文学部・理学部成立した。このフンボルト精神(教育と研究の統合)はどこの国でも用いられているものではなく、たとえばイギリスの大学では、教育と研究の間には距離があるといえる。加えて、大学は、大学の自治を求めるようになる。ドイツの大学は、国家の保護を受けているが、大学には自治があり、また学問も自由であるという主張が起こる。これは、国家からの大学の独立といえる。近代の科学技術研究の進歩により、大学は財政的には研究のために国家から独立できなくなった。しかしながら、大学の自治、そして学問の自由は国家に制約されることはなく、自由であるとの考えが起こった。
3.ヨーロッパの大学
ヨーロッパの大学は、18世紀にい
1.大学のはじまり
大学のはじまりは、12世紀で、基本的に講師は職業の資格認定・教育訓練の独占・国王や教皇の勅許状による専門職のギルドだった。ボローニャ大学では、学生組合(ストゥディウム)と教師の組合が別にできていた。
大学の近代化はベルリン大学の創立をもって始まりとする。それ以前の大学は、「中世大学」あるいは「近世大学」であり、それらは18世紀には沈滞の極地にあったために、従来型の大学とはまったく異なった原理でベルリン大学を作り、それが、近代大学の出発点となった。
18世紀の大学は沈滞の極地であったというのは、18世紀に科学と産業化による大学の危機がおこったからだ。18世紀にはいり大学が、研究するためには国家の費用が必要不可欠になってしまった。それは、科学研究の進歩により、研究のために必要な設備が、それまでよりより大掛かりに、またより高価になったからである。たとえば、原子の研究を例に取ることができる。原子の研究には、原子炉が必要不可欠であるが、それを大学だけでまかなうことはできない。つまり、国家の補助がなければ、研究が行えなくなるという事態になってしまったのだ。
また、自然科学などの...