日本の美とイサム・ノグチ
はじめに
私がイサム・ノグチについて全く知らなかった。初めて知ったのは数年前に札幌芸術の森美術館で開催された「イサム・ノグチ展」であった。当時は、彼について全く知らず何故名前が片仮名なのかも分からなかった。また彫刻にも興味がなかったのもあり、彼への興味は薄れていた。今回、彼について調べていく内に彼がどう生きて、どのような作品をつくったのかを知った。日本人とアメリカ人の間に生まれた彼の葛藤はもちろんあっただろう。その中で、彼はどう日本の美に出会い、現代の日本人たちに伝えたかったのかと疑問に思った。また彼と日本の美について考察してみたいと思う。
イサム・ノグチの人生
イサム・ノグチは詩人・英文学者の野口米次郎とレオニー・ギルモアの子として1904年ロスアンゼルスで生まれる。1907年、母と共に日本に移り住む。1918年単身欧米。彫刻家を目指す。その6年後、レオナルド・ダ・ヴィンチ・スクールに入学し彫刻を学ぶ。1951年<あかり>のデザインを開始する。1988年、札幌・モエレ沼公園の設計を行う。その年、イサム・ノグチはニューヨークにて死去する。
イサム・ノグチの作品
私はモエレ沼公園には何度か足を運んだことがあるが、彫刻を見ても何も感じなかった。イサム・ノグチの作品だと分かっていても、いまひとつ理解できなかった。だが、彼の作品で日本らしいインテリアである<あかり>シリーズでだされた照明は彼らしいく、また日本の美に近いのではないかと思った。
以前、なんとなくインターネットで見たルームライトがとても印象深かったのを覚えている。日本風の提灯を基に作られたおしゃれなライト。日本の美をかもしだしているのではないだろうか?
4.あかりシリーズとは
“AKARI”と名つけられた照明は、岐阜の伝統的産業である岐阜提灯との出会いの中から作られた。独特の光を柔らかく広げるわしの性質と竹ひごの不規則に張り巡らすことによって、和紙の縮みや、しわをそのまま残し、たんなる照明のための器具にはとどまらず、部屋のオブジェとして光の彫刻として成り立たせた照明。
和紙という素材と日本古来の美意識に基づきデザインされた”AKARI”は日本古来の美しい工芸品を見事に現代に蘇らせたとして、世界中から注目され、現在ではニューヨーク近代美術館(MOMA)のパーマネントコレクションになっているほか日本グッドデザイン賞を受賞など各国の家庭やオフィスで広く愛用されている。
5.イサム・ノグチとあかり(AKARI)
イサム・ノグチは1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、自ら志願して強制収容所に拘留された。しかし、アメリカ人とのハーフということで、アメリカのスパイと噂がたち、日本人から冷遇され、今度は自ら出所を希望するが、またも日本人のハーフとのことで出所は出来なかった。
彼は、日本人でありながらもアメリカ人の血も引いていることもあり両国からの冷たい視線にもどかしさを感じたのではないだろうか。私は、もし自分が彼と同じ境遇を味わったならば、日本への美意識や愛国心は薄れてしまうと思う。また、芸術家として日本をモチーフにデザインはしたくないと思うだろう。
だが、彼はその6年後の1947年、ジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン製作するなどインテリアデザインの作品に手を染める。2年後から岐阜ちょうちんをモチーフにした「あかり(AKARI)」シリーズを開始した。
1969年、ユネスコ庭園に香川県に花崗岩をつかったことがきっかけで香川県にアトリエを構え、「あかり(
日本の美とイサム・ノグチ
はじめに
私がイサム・ノグチについて全く知らなかった。初めて知ったのは数年前に札幌芸術の森美術館で開催された「イサム・ノグチ展」であった。当時は、彼について全く知らず何故名前が片仮名なのかも分からなかった。また彫刻にも興味がなかったのもあり、彼への興味は薄れていた。今回、彼について調べていく内に彼がどう生きて、どのような作品をつくったのかを知った。日本人とアメリカ人の間に生まれた彼の葛藤はもちろんあっただろう。その中で、彼はどう日本の美に出会い、現代の日本人たちに伝えたかったのかと疑問に思った。また彼と日本の美について考察してみたいと思う。
イサム・ノグチの人生
イサム・ノグチは詩人・英文学者の野口米次郎とレオニー・ギルモアの子として1904年ロスアンゼルスで生まれる。1907年、母と共に日本に移り住む。1918年単身欧米。彫刻家を目指す。その6年後、レオナルド・ダ・ヴィンチ・スクールに入学し彫刻を学ぶ。1951年<あかり>のデザインを開始する。1988年、札幌・モエレ沼公園の設計を行う。その年、イサム・ノグチはニューヨークにて死去する。
イサム・ノグチの作品...