平安宮廷文学における視覚効果
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり、花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
和歌は、交信の手段など、心情を表すものとして捉えられることができる。しかし、この『古今集』仮名序の冒頭で述べられているように、それだけとは限らず、むしろ「自己と対立的でさえある外在的な物や人などを表す言葉をもとりこんでいるのが、一般的」だと認識するほうが正しいようだ。(『歌われた風景』)そこで、平安文学で詠まれる心情ではなく、視覚的・映像的なもの、色彩に着目していきたい。
歌謡、催馬楽においても和歌と同じように視覚効果を見出すことができよう。色彩効果が強く、そしてわかりやすくあらわれているのは「梅が枝」である。頭の中に思い浮かぶ、「梅」からイメージされる赤と、雪の白・白銀という美しい対比。この時点で「梅が枝」は絵画的な働きかけを持っているといえる。そしてさらに、最初の「梅が枝に 来居る鶯」と最後の「雪は降りつつ」という部分が対応しており、そこで今度は冷たい色合いの冬と、明るく色とりどり華やかな春の対比を思い描くことができる。象徴的な物からより広い世界へと視界が広げられ、一種のカメラワークのような、映像的な働きを見ているようだ。また、冬から春への移行という動きを描いている点でも映像的である。
「梅が枝」も『源氏物語』の中で使われているが、同じように『源氏物語』では様々な和歌が引用されている。『源氏物語』は、数多い古歌の中から物語の場面にもっともふさわしい歌を選んで利用しているという。(『王朝和歌を学ぶ人のために』)このことは何を意味しているのか。やはり、物語に語る力を添える挿絵的な、視覚効果を狙ったものであると考える。
浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る
この古今集の歌も『源氏物語』で使われているひとつである。雪を白波に例えているのは文学的であるが、「波が山を越える時に見せるはずの波頭の光景を思わせる、松の木の跳ね上げた雪が弧を描いて落ちる様の見立てとした」(『王朝和歌を学ぶ人のために』)ところで動きがあり、イメージを沸き立たせる。雪の細かな動きが映し出された映像的な点で、雪景色の絵を添えるよりも情景を伝えるのにより効果的ではないだろうか。視覚効果は、物語で語られる心情や出来事を多彩にし、より共感できるもの、ストーリーを共有しやすいものにしていることが窺える。表現行為はそれ自体で自己完結しない。他者との相互関係の上に完了するものである。文学表現の場合、それを享受者と置き換えられるとすれば、文学表現としての評価は、享受者の共感の上はじめて成り立ち得るものであるという。(『詩歌の表現』)歌中の視覚・色彩効果は、享受者の共感を得る上で重要な役割を果たしているといえる。
前述した歌は純粋に風景を詠んでいる歌だとよめる。おなじように風景を詠んだ紀貫之の歌では、文学表現ならではの視覚効果を見ることができる。
霞立ち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける
「花なき里」ということは、花は実際にそこには存在しない。しかし雪を花に例えて描写することで花の幻像を映しだすことに成功しているのだ。また、木の芽が「張る(萌る=ふくらむ)」と「春」をかけて、木の芽が膨らむ早春の景色と、花が咲き乱れる華やかな春を同時に描き出している。どちらも文学ならではの特徴的な表現方法である
平安宮廷文学における視覚効果
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり、花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
和歌は、交信の手段など、心情を表すものとして捉えられることができる。しかし、この『古今集』仮名序の冒頭で述べられているように、それだけとは限らず、むしろ「自己と対立的でさえある外在的な物や人などを表す言葉をもとりこんでいるのが、一般的」だと認識するほうが正しいようだ。(『歌われた風景』)そこで、平安文学で詠まれる心情ではなく、視覚的・映像的なもの、色彩に着目していきたい。
歌謡、催馬楽においても和歌と同じように視覚効果を見出すことができよう。色彩効果が強く、そしてわかりやすくあらわれているのは「梅が枝」である。頭の中に思い浮かぶ、「梅」からイメージされる赤と、雪の白・白銀という美しい対比。この時点で「梅が枝」は絵画的な働きかけを持っているといえる。そしてさらに、最初の「梅が枝に 来居る鶯」と最後の「雪は降...