はじめに
『途上』はこの短編作品の中で数少ない探偵小説的要素を持っている作品である。物語には探偵と話をしているうちに追い詰められていく犯人の描写がうまく書かれている。これを読んだ江戸川乱歩が「海外にも類例のない探偵小説」と絶賛し、この作品を紹介するために「プロバビリティーの犯罪」という新たなジャンル名を創り出し、さらにこれに触発されて「赤い部屋」なる傑作を書いた、というほどの名作だ。
そこでこの『途上』における探偵要素と作品中の湯河の夫婦関係、さらに物語の背景にあたる潤一郎の夫婦関係とのつながりを考察していこうと思う。
探偵要素
まずこの作品で一番目を引くところはなんと言っても証拠を作ることなく、傍目から見れば事故死、病死としか見えないようにしてじわじわとゆっくり時間をかけて湯河が筆子を殺すという殺人計画だろう。
本文の「ですからあなたは、或る一定の偶然の危険の中へ奥様を置き、そうしてその偶然の範囲内での必然の危険の中へ、さらに奥様を誘い込んだという結果になります。此れは単純な偶然の危険とは意味が違います。」(本文一九六ページ二行目~四行目)と「無数の偶然的危険要素が寄り集まって一個の焦点を作っている中へ、その人を引き入れるようにする。そうなった場合いには、もうその人の蒙る危険は偶然でなく、必然になって来るのです。」(一九九ページ八行目~一〇行目)に書かれている様に偶然の中から出てくる必然、それを何度も何度も湯河が実行することにより、どんなに時間をかけてもいいから必ず筆子を殺す。という執念を感じることができる。が、しかし、この物語の中で果たして本当に湯河が筆子を殺したのかという答えは一切出てこない。もしかしたら本当にただの病死や、湯河が筆子に対する優しさや気遣いが裏目に出てしまったのかもしれない。
だが、論者は筆子が確実に湯河に殺されたと考える。本文の「彼は或る日、細君が晝寝をして居る時にこっそりと其の栓へ油を差して其処を滑らかにして置きました。彼の此の行動は、極めて秘密の裡に行われた筈だったのですが、不幸にして彼は自分が知らない間にそれを人に見られていたのです――見たのはその時分彼の家に使われて居た女中でした。」(本文二〇四ページ十二行目~十五行目)と書かれているように、もし殺す気がないのならわざわざ栓に油を差すこともないし、もし筆子を思う優しさから滑りやすくさせるために油を差すのなら、わざわざ筆子の寝ている時でなくてもいいし、こっそりやる必要もない。
湯河が筆子を殺害した証拠はこれだけしかないのだが、このときの湯河の妻に対する思いや、同時に付き合っていた久満子のことを考えると湯河には殺人に走るだけの動機はあったと考えられる。
江戸川乱歩もこの『途上』の探偵要素のある殺人事件には大いに興味を持った。
私は円熟された後期の作品にも無論非常に敬意を表するが、初期の諸短編の着想のオリジナリティーをも、私の性格として大いに愛好するものである。しかし、谷崎さん自身は初期の短編に愛着を感じておられない様子である。(中略)「白昼鬼話し」「私」「途上」なども犯罪の謎を興味の中心とする探偵小説であった。
それらの中でも着想のオリジナリティーという点では「途上」がもっとも際立っている。私はこの着想を私流に引きのばして、「赤い部屋」という短編を書いたが、私の知っている限り、世界の探偵小説に、この種のトリックを用いたものは皆無であった。(中略)私は「途上」に書かれた殺人方法を、妙な言葉だが「プロバビリティーの犯罪」と名づけている。気の長い、安全至極な殺人方法なので
はじめに
『途上』はこの短編作品の中で数少ない探偵小説的要素を持っている作品である。物語には探偵と話をしているうちに追い詰められていく犯人の描写がうまく書かれている。これを読んだ江戸川乱歩が「海外にも類例のない探偵小説」と絶賛し、この作品を紹介するために「プロバビリティーの犯罪」という新たなジャンル名を創り出し、さらにこれに触発されて「赤い部屋」なる傑作を書いた、というほどの名作だ。
そこでこの『途上』における探偵要素と作品中の湯河の夫婦関係、さらに物語の背景にあたる潤一郎の夫婦関係とのつながりを考察していこうと思う。
探偵要素
まずこの作品で一番目を引くところはなんと言っても証拠を作ることなく、傍目から見れば事故死、病死としか見えないようにしてじわじわとゆっくり時間をかけて湯河が筆子を殺すという殺人計画だろう。
本文の「ですからあなたは、或る一定の偶然の危険の中へ奥様を置き、そうしてその偶然の範囲内での必然の危険の中へ、さらに奥様を誘い込んだという結果になります。此れは単純な偶然の危険とは意味が違います。」(本文一九六ページ二行目~四行目)と「無数の偶然的危険要素が寄り集まって一...