三四郎が主人公でなくてはならない理由を考えるにあたっては、三四郎特有の気質がこの物語にどのような影響、効果を与えているかを考えるべきである。本来ならば美禰子と野々宮の恋に横恋慕する一端役として描かれるべき三四郎が主人公として描かれたのは何故だったのか。
まず第一に、本文ではなく後書きに記された漱石自身の、三四郎を書くにあたって述べた文を引用する。
「(前略)ただ尋常である。摩訶不思議はかけない」(岩波文庫 三四郎 312ページ)
つまり漱石はこの物語をしごく尋常なものとして展開するつもりであった。新聞小説という形式をとっていることもあり、分かりやすさが最も要求されていたのだと思われる。
そういった尋常、親しみやすい物語で肝心なのは、実際に有り得そうだと誰もが思える展開をさせることだ。しかし三四郎の中に出てくる主要人物は、三四郎や与次郎よりも一世代、もしくは二世代上なのにも拘わらず独身
を貫き通す原口、広田、野々宮、また彼の妹であり奔放に生き、それ故田舎から出てきた三四郎には謎めいた女性として描かれている美禰子や、広田に言わせると彼女と同じくらい「イプセンの女」であるよし子といった...