1単位目
1.教員養成の歴史について論述せよ
まず「教員」の意味を明らかにすることから始める。教員とは「教育公務員特例法」「教育職員免許法」で示されているように、教育者のうち特に学校という教育機関に委託された業務を遂行することを職務とする者のことをいう。教員は教育を職務として遂行し、教育機能を有する他の教育者を補完するばかりでなく、高い専門性によってその陣頭に立ちその責任を果たすことを期待されている。それは以下のような理由による。本来、後進に知識を与え、社会の一構成員として必要な教育を施す主体は家庭であり社会であった。しかし彼ら教育者が文化水準の向上と多様化、また量的拡大によってその機能の限界を意識せざるを得ない状況となったとき、最も効率の良い教育主体として学校は発生した。ゆえにその職務を委託されている教員は高い専門性が要求されるのである。我が国において最初に職業人として教員の養成を行ったのは師範学校である。師範学校は明治5年の「学制」によって設置されたが、厳しい財政事情もあって高まる教員需要に満足に対応できなかった。また明治政府がとってきた従来の欧化政策も明治天皇の支持もあって道徳教育に力を入れた儒教主義的な教育への転換がこの時期見られた。師範教育制度の本格的整備が始まったのは明治19年の「師範学校令」である。学科課程の基本的制度が定められ、生徒は全寮寄宿舎制度により寄宿舎で軍隊式の厳格な生活を送ることとなる。また生徒の学費は公費とされ、私費生は認められなかった。しかし明治30年の「師範教育令」制定により私費生が認められると共に女子師範学校が設置されることで師範教育の理念も変化していった。その後昭和期に入り、太平洋戦争に突入していく中で教育理念、制度は強化されていく戦時体制と呼応していった。しかし終戦によってその方向性は大きく転換され、アメリカ教育使節団の報告書に始まる教育改革が行われていくこととなる。一つは開放制の原則の確立である。教員養成は一般の大学によって行われ、師範学校は教育学部などに改編されていった。一方開放制の実施により始まった一般大学での教員養成は専門的準備教育が必ずしも十分に行われているとは言えなかった。そのため文部省は開放制を維持しながらも質的水準を保つため教職課程の認定制を採用した。またその後も免許の基準の引き上げ、生徒指導に関する科目の追加、教育実習の充実、教員免許更新制の導入といった改革が行われている。このように教員養成制度は質的水準を確保しつつ教育環境の変化、社会的要請へ対応してきたといえる。
2.教職の専門性について論述せよ
教職とは児童生徒を教育する職業のことである。またその実際の運営にあたるのは「教育公務員特例法」等の教育関係法規で定められている「教員」である。教員たる資格は一般大学で指定された教育課程を修了した者に対し授与される。教員になるための準備教育課程は教職課程と呼ばれ、教育原理、教育心理、教科教育法といった教育に関する専門的な科目が含まれている。以上から教職とは専門職であり、教員は専門的知識および技能を要求されていることが分かる。我が国で最初にそうした視点が見られるのは昭和21年3月に来日した第一次アメリカ教育使節団による報告書である。そこには「教えるということは、専門職と考えるべきである」と明記され、教職を専門職と捉えている。同報告書で示された専門職制の原則は以降我が国の教員養成において重要な要素となった。教職を専門職とする論理は概括すると以下のようになる。基本的人権としての教育を受ける権利は国家の重要な責務であり、その責務を果たす使命を与えられた教員は高い専門性を持って職務に当たるべきである。また教育は高い公共性を有し、かつ有用性が高い。ゆえに教育は国家の一施策としても最大の効用が期待されており、教職には高い専門性が期待されるのである。次にそうした専門性によってどのような教育が期待されているかについて述べる。学校における教育活動は教科指導と教科外指導に分けられる。しかしいずれにしても学校の教育活動の中心は授業であり、両者とも学校教育目標及び学習目標の達成を目指し学習を指導していくことになる。その目標設定において必要になるのが、どのような教育に価値を置き、評価するかということである。その点、1989年の学習指導要領改訂により示された学力観では児童生徒の自主性、主体性を育む教育に価値を置き、それを実際の教育活動の中で具体化していくことが課題となっている。総合的な学習の導入が象徴的な例である。児童生徒は各教科で学んだ基礎的な知識・技能を活用し、教科の枠を超えた横断的、総合的な学習を通じて自主性、主体性を養っていくことになる。つまりそうした要素を満たす教育が教職の専門性という立場から要求されており、教員の準備教育たる教職課程はそれに対応しようとしているのである。
2単位目
1.現代の教員に求められるものについて論述せよ
まず現代社会を理解することから始める。我々が生きる現代は戦後しばらく続いた豊かな成長期を終え、変化の激しい時期に突入し変革の時代を迎えた。経済はグローバル化の波を受け競争は激化し、市場は世界的となった。それにより急激な社会変化が起こることとなり、変革に対する社会的要請は増加していった。経済構造の変化に伴い職業教育の内容は変化し、国際市場で通用する人材の確保は喫緊の課題となっている。このように教育制度は外的な要請を強く受ける形で改革が行われようとしている。また同時に教育現場からの内的な要請も存在する。学力の低下、格差、学校における秩序維持の困難さがその例である。これは幅広い社会背景から生徒を集め、受け入れることばかりに懸命で、教育の質が後回しになってしまったことに一つ原因がある。こうした点から、現代の教育に必要となるのは社会が変化しようとも自ら課題を見つけ、学び、考え、判断、行動する自発性、主体性を育む教育である。96年の第15期中央教育審議会第一次答申で示された「生きる力」の養成の必要性が強調されたのは現代社会に対する社会的な要請を強く反映させたものであったといえる。答申ではその他に自立心、自己抑制力、自己責任といった個性尊重を背景にもつもの、また他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった共生社会の理念を重視している。児童生徒に対する教育的要請は以上である。一方教員を取り巻く社会状況は急速に変化し、学校教育が抱える課題も複雑・多様化していくことが今後一層予想されるため、教員は最新の専門的知識や指導技術の習得に努めねばならない。つまりこれまで優れた教員として挙げられてきた条件に加え、今後さらに深まっていくと予想されるグローバル社会への対応を含めた地球的視野に立って行動する資質能力、またそれに付随して激しい社会変化の時代を文字通り「生きる力」を身につけることが現代の教員に求められているのである。
2.教職に求められる教育愛について論述せよ
まず教育愛の意味を明らかにすることから始める。教育愛とは教育の行われる場面において教育者が被教育者に対し発動する愛のことである。愛とは対象者ないし物に向けられるものであり、明確な意識をもってなされるものである。したがって教育愛とは教育の成立要件である教育者においては人に限定されると共に、意図された教育によって発動するのである。次に教育愛の特殊性について論じる。愛は教育愛だけでなく様々な形で存在する。親子愛、異性愛、友愛がその例である。教育愛の特質としてまず挙げられるのが、愛を発動する対象を選ばないという点である。学校という教育機関で職業人たる教員が被教育者に対し教育を行うのであるからこれは決定的条件である。異性愛、友愛において愛は対象者に価値を発見した時点をもって発生する。親子愛はその対象が親子関係の存在する子に対し自然発生的に発動するものであり教育愛とは性質を異にする。確かに教育愛以外の愛においても愛による価値の発見は行われる。しかし他の愛に比べ教育愛は対象者が極めて非限定的であり、かつ対象者の選択も許されないのであるから一人の対象者固有の価値を発見するのは困難である。ゆえにその困難の達成に対する労力の源こそ教育愛の特質といえるのである。もう一つの特質として教育愛の精神的無償性が挙げられる。確かに教員は労働者であり、教育という経済的行為を通じて報酬を得ている。その点において、つまり経済的、物質的意味において教育愛は有償であるといえる。一方教育愛における対象者の非限定性という観点から次のような結論も導ける。親子愛、異性愛、友愛といった他の愛は子、恋人、親友といった対象者から、対象者の限定性により精神的な報酬を得ている。一方教員は職業人として教育愛の対象を選んではいけないのであり、それ故見返りを求めず惜しみない愛を与えることとなる。したがって教育愛は精神的無償性を有すると言えるのである。最後に教職者に求められる教育愛について論じる。これまで述べてきたように教育愛には対象者の非限定性、精神的無償性という特質がある。しかしこうした特質は現実的には教員の有り様ではなく、あるべき姿を示すものである。つまり教員は被教育者たる児童生徒を恣意的に選別、差別せず、惜しみない愛をもって教育にあたるべきということである。以上が教育愛の特質と教職者との関係である。