「50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践のあり方を具体的に論述すること。」
戦後50年に及ぶ同和教育史についての概略は以下の通りである。1951年に京都市で、保健所職員が被差別部落の実態を、差別的言葉を随所に散らばらせながら興味本位に書いたことにより「オールロマンス事件」が起こった。この事件及び、その後の闘いでは、「差別とは観念の亡霊ではなく、具体的な部落の生活にあること」を明らかにすることで、生活の中にある低位な実態を放置してきた政治・行政に対する闘いとして、差別行政糾弾戦争が展開されていくことになった。 当時の同和地区の実態は、「不就学児童・生徒は部落外の12倍にも及ぶというのに、学校や教育委員会は何の手だてもしない」という実態にあった。この劣悪な実態が差別を再生産していると指摘されたことが、1696年の「同和対策事業特別措置法」の公布・施行へと結びつくことになる。
1951年、京都市内の小中学校の児童・生徒の欠席率は、全市比率の数倍も上回ったことから、1952年には、緊急の手だてとして、「特別就学奨励費」が制度化された。京都...