神の存在証明の論理構造について

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    資料紹介

    デカルトは「省察」の省察?・?において「学問においていつか堅固でゆるぎないものをうちたてようと欲するなら、・・・・最初の土台から新たにはじめなくてはならない」という出発点から、懐疑を始める。そして認識について、まず自分が今まで信じたものについて懐疑の目をむけた。この懐疑において、外部感覚・内部感覚・数学という順で認識の確実性を見つめ直していく。しかし、個別を対象とした外部感覚と内部感覚は懐疑を免れえない。さらには普遍的な数学に関する学問においても「すべてのことをなしうる神」によって、真であると思われるこの種の学問でさえも「私が誤るように仕向けたのではないか」という懐疑は免れえない。その結果、デカルトは「ゆえに私は、私の見るものはすべて偽であると想定」し、「私がなんらかの感覚器官をもつこと、なんらかの身体を持つこと」を否定したのである。
    しかし、ここにおいて「私が自らに何かを説得したのであれば、私は確かに存在した」という自己の存在が示されたのである。さらに、たとえきわめて有能で狡猾な欺き手がいたとしても、私を疑うという点において、より私の存在が明らかになるのである。こうしてデカルトは「『私はある、私は存在する』というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは、精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」と結論したのである。
    こうして私の存在が明晰判明なる真であるとなったわけであるが、だとすれば私がこの上もなく明晰判明だと判断したものは真であるとなるはずである。しかし、省察?・?にみられるように、たとえば、「2に3を加えると5になる」というような事柄に関しても「私は少なくともそれらを真であると肯定するにたりるだけ透明に直感していた」にもかかわらず、神のごとき全能者であればそのようなことさえも欺きうることをデカルトは知っている。

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    哲学

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    近代思想論演習 提出レポート
    ②「神の存在証明の論理構造について」
     デカルトは「省察」の省察Ⅰ・Ⅱにおいて「学問においていつか堅固でゆるぎないものをうちたてようと欲するなら、・・・・最初の土台から新たにはじめなくてはならない」という出発点から、懐疑を始める。そして認識について、まず自分が今まで信じたものについて懐疑の目をむけた。この懐疑において、外部感覚・内部感覚・数学という順で認識の確実性を見つめ直していく。しかし、個別を対象とした外部感覚と内部感覚は懐疑を免れえない。さらには普遍的な数学に関する学問においても「すべてのことをなしうる神」によって、真であると思われるこの種の学問でさえも「私が誤るように仕向けたのではないか」という懐疑は免れえない。その結果、デカルトは「ゆえに私は、私の見るものはすべて偽であると想定」し、「私がなんらかの感覚器官をもつこと、なんらかの身体を持つこと」を否定したのである。
    しかし、ここにおいて「私が自らに何かを説得したのであれば、私は確かに存在した」という自己の存在が示されたのである。さらに、たとえきわめて有能で狡猾な欺き手がいたとしても、私を疑うという...

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