私は、当初、別のテーマでレポート作成をしていたが、最後の補講で戦争と人間魚雷のことを教わり、テーマを変更することにした。理由は、以前のアレン・ネルソンさんの話と同様、戦争の恐怖とその被害者とは誰かということを強く感じたのと同時に、魚雷に関わる国全体の洗脳の恐ろしさを知ったからである。このレポートでは、戦時中の日本国民の意識と、その背景について考察する。
戦争中の日本国民には、二通りの感情があった。一つは「国のため」という使命感である。もう一つは、人間本来の願望である「生きたい」という気持ちである。しかし、圧倒的に使命感の方が強かったため、日本は、結果的に戦争によって、余計に多大な犠牲を払ったとも言える。
補講中のビデオから、その使命感は色々な場面で見られた。
まずは、山口県の魚雷操作の訓練場である。ここに何も知らされずに連れてこられた少年たちは、なぜ最終的に魚雷に乗り込み、またそのことに納得していたのか。戦場で敵を倒すことは生きて帰る可能性を残すが、魚雷に乗り敵を倒すことは、死の可能性以外にない。
もし、現代の子供があの訓練場に連れていかれ、人間魚雷に乗って死ななければならないと聞いたら、その子供たちはどうするだろう。間違いなく反抗するだろうし、それが駄目なら逃げ出そうとするだろう。そのことに対し、私たちは何もおかしいとは思わない。第一、訓練場についてからその事実を伝えることが、卑怯だと思うし、確実に命を落とす物に乗る訓練をするなどというのは、非常識だと考える。
しかし、当時の社会は違った。その事実を突きつけられた少年たちは、何とかそれを実行できるまでの精神力を身につけようと、必死に努力し始めたのである。
次に、このビデオの主人公の友人の話にも、その色は強く見られた。
私は、当初、別のテーマでレポート作成をしていたが、最後の補講で戦争と人間魚雷のことを教わり、テーマを変更することにした。理由は、以前のアレン・ネルソンさんの話と同様、戦争の恐怖とその被害者とは誰かということを強く感じたのと同時に、魚雷に関わる国全体の洗脳の恐ろしさを知ったからである。このレポートでは、戦時中の日本国民の意識と、その背景について考察する。
戦争中の日本国民には、二通りの感情があった。一つは「国のため」という使命感である。もう一つは、人間本来の願望である「生きたい」という気持ちである。しかし、圧倒的に使命感の方が強かったため、日本は、結果的に戦争によって、余計に多大な犠牲を払ったとも言える。
補講中のビデオから、その使命感は色々な場面で見られた。
まずは、山口県の魚雷操作の訓練場である。ここに何も知らされずに連れてこられた少年たちは、なぜ最終的に魚雷に乗り込み、またそのことに納得していたのか。戦場で敵を倒すことは生きて帰る可能性を残すが、魚雷に乗り敵を倒すことは、死の可能性以外にない。
もし、現代の子供があの訓練場に連れていかれ、人間魚雷に乗って死ななければならないと聞...