「中国におけるインターネット上の規制についての考察」

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    「中国におけるインターネット上の表現規制についての考察」
                  〜基本的人権と表現の自由〜
     始めに、中国における「インターネット上の表現規制」は、我が国における表現の自由の保障とは相容れない概念であり、日本国憲法の下においては、このような政策は基本的人権に対する侵害となるため認められていない。また、世界的に見ると、1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」は、「すべての人民と国が達成すべき基本的人権」を宣言しており、国家が国民の「表現の自由」を制約することは、その理念からも逸脱したものであるといえる。また、中華人民共和国憲法には「言論の自由」を人権として定めた規定がある。よって、このような政策は、中華人民共和国憲法にも違反しているとも考えられるが、しかし、同憲法には、「中国共産党に指導を仰ぐ」ことが明記されており、中国共産党が憲法よりも上位にある構造のため、実際には人権が制約されることとなる。
     私は、中国がこのような言論統制ともいえる政策を行うにつき、中国政府は、その正当性をどこに求めているのかという点を疑問に思った。よってここでは、基本的人権の発展と、民主主義国家と社会主義国家の違いを明確にし、中国がどのような立場をとっているのかという点を考察したい。

    まず、近代的な人権の概念は、「人が生まれながらにしてもつ権利」として人権を位置づけており、前国家的な性質を持つため、国家によって与えられるものではないものとして確立されている。これはジョン・ロックの自然権思想に基づく。しかし今日では、社会契約論そのままではなく、人権の根拠は「個人の尊厳」に置き、国家によって与えられる性質の社会権や参政権も、当然に基本的人権に含まれると解されている。我が国の憲法も、「個人」に価値の根源を置き、集団を個人の福祉の実現のための手段とみる「個人主義」の立場を表明し、全体主義を否定している。
    (しかし、個人は常に何らかの社会集団に所属し、それに多かれ少なかれ依存しながら生きているのであって、集団のルールに従わなければならないのは当然である。しかも、個人にとって、自己の帰属する社会集団は、単に生きるための手段という以上に、個人のアイデンティティの一部を構成するものであり、特に日本人は、いかなる社会集団に帰属しているかを自己のアイデンティティの要素として重視する傾向が強いと言われている。それだけに、ともすれば集団が個人を飲み込み個人の自立性を圧殺してしまうことになりやすい。それを阻止するために、個人こそが価値の根源であることを耐えず意識し強調する必要がある。−『立憲主義と日本国憲法』から抜粋−)

     我が国は民主主義国家であり、民主主義の根幹は「治者と被治者の自同性」にある。すなわち、治めるものと治められるものが同じであることをいい、国民によって政治が行われることを指す。よって、国民の自由な意思表示が確保されなければ、民主主義は成立し得ない。そのため日本国憲法は個人の尊厳を保障し、憲法13条前段は「全て国民は、個人として尊重される」と明記している。この規定は、個人が自律的に自己の生き方を選択・実践していくことを、あるべき個人像として前提とし、個人のそのようなありかたを尊重するという意味の規定である。個人が自律的に生きるのに不可欠の権利として、憲法13条後段では「幸福追求権」を保障しており、これこそが、日本国憲法の保障する基本的人権である。その具体的な個別の人権として「表現の自由」(憲法21条)等が規定されているのである。

    次に、「個人主義」と対立する立場にあるのが「全体主義」である。全体主義は、価値の根源を全体に見出し、個人を全体に貢献する限りにおいてしか価値をもたないと考える。このような思想によって構築されたのがナチス政権であり、ナチス政権は人間に対する非人間的な扱いを許容した。その経験から、人間を人間としてふさわしい扱いをしなければならないことが再確認され、個人の人権の尊重が確立された。

     一方、中国は社会主義国家であるが、社会主義思想の発展はマルクス思想に基づく。マルクスは、近代的な人権は労働者階級にとって形式的なものに過ぎないとロックの自然権思想を批判し、人権は天賦のものではなく、階級なき社会において始めて獲得されるものであると主張した。マルクスの思想に基づきロシア革命が成功し、生産手段の社会主義的所有における権利保障が規定されることとなる。すなわち、社会主義は、労働者の利益を代表した1つの政党により、労働者の利益になるよう、国が産業を統制し、自由な経済活動ではなく、決められた枠の中で平等に利益を分配するという考え方である。

    社会主義国家は人権をある程度で制約するが、人権を全く尊重しないという訳ではない。先に述べたように、社会主義は労働者の保護が根幹にある。ここでもう一つの社会主義国家であるキューバについて言及する。私が以前キューバを訪れた時、キューバは物資が不足しており、建物は古く、ひび割れていた。しかし、町は清潔で、隅々まで清掃が行き届いており、(タイ等で多くみられるような)物乞いがおらず、一人で路地裏を歩くことを躊躇する必要がないほど安全な国であった。また、人々の身なりが清潔で、健康的であり、なによりも笑顔が明るいことが印象的であった。キューバでは常に警察が巡回・監視しており、警官がいたるところに配置されている。警官は道案内や犯罪の予防を細かく指導していたが、国民の脅威とはなっておらず、むしろ親しまれていた。キューバは教育・医療・スポーツの点で世界最高水準に達しており、医療は全て無料である。また、大学までの学費も全て無料であるため、世界一大学進学率の高い国である。しかし、キューバではインターネットの規制があり、外国のサイトを見、外国にメールを送る事が難しいという点で国民は不満を感じているようであった。ここに人権の制約が見える。また、経済活動が制約されており、物資不足は深刻であった。しかし、キューバの歴史上、スペインの植民地とアメリカの支配を受け、独立によって貧困から脱却したという点で、政府に寄せる信頼は厚い。カストロ前議長の「私は自分自身の独裁者であり、国民の奴隷である」という言葉に要約される。さらに、国民に対して亡命の自由を与えている点も特徴的である。
    しかし、中国には全く違う印象を受けるのはなぜか。中国の社会主義は、先に述べた全体主義とどこが違うのだろうという疑問が生じる。例えば、中国政府のチベット少数民族に対する思想信条の自由の剥奪や、武力による権力の奪取、虐殺ともいえる行いは、ファシズムのそれと酷似している。労働者の利益を保護するための一党政治であるはずが、個人の価値が没却され全体主義に陥ってはいないだろうか。それを知るためには、中国の歴史を十分学ばなければならないが、中国の発展に不可欠であった中国独自の「中華」の思想が関係しているのではないだろうかと考える。中華思想は、「中華」が世界の中心であり、中華の文化と思想が世界で最高の価値を持つとする思想である。中国の中でも、「中華」でないものを蔑み、中華になることが最善であることを旗印として、中国は現在の広範囲に及ぶ領土を獲得してきたという歴史がある。その点について考えると、中国の発展において、平等という概念が生まれる余地はなく、むしろ格差があることを前提として国を統率してきたと言える。中華思想は対外的な権力誇示であるから、その意識は外側に向けられる傾向にあり、内政や国民の利益という内側を意識しない傾向にあることが伺える。そして、その権力の根拠となるのは、支配の正当性や立法の正当性ではなく、伝統をもってのみ権力の正統性としているのではないだろうか。さらに中国政府は、政治的な大きな転換をすることによって、広い領土を統率できなくなるという危惧があるのではないだろうか。

    しかし、人類の歴史を見ると、国民の支持を得ない政権はいずれ破綻することになる。国民の生活を守ることは国家の義務であり、国民個人の利益を図ることによって国家全体の利益が保たれるのであって、全体主義に陥ってはならない。先に述べたキューバの例では、極度の貧困や飢餓から脱却するためには、個人の尊厳よりも、平等な分配を図ることに正当性があったのかもしれない。しかし、貧困から脱却し、ある程度の生活水準が保たれるようになった現在では、国民がさらなる権利(個人の尊厳)を主張し始めるのは当然であり、そのような主張を圧殺する言論統制はなされてはならない。国民の不満がつのれば、政策を転換せざるを得ないであろう。
     言論の自由が保証されない国家では、国民の不満が圧殺され、言論の自由を獲得するための行為自体が、統率されてしまう。労働者の声を聞かないのであれば「労働者のための政党」とはいえない。現在の中国は急速な経済成長を遂げているが、その恩恵を受けているのは一部の権力者層だけであるという見解が有力であり、国内では反政府運動やデモが頻発しているが、権力によって言論を統制しているといえる。そのような状態が続くことは国民にとって不利益であり、現政権はいずれ崩壊するのではないかと誰もが懸念する状況といえる。そうならないために、中国はもっと諸外国から学び、新しい方法を模索すべきであり、諸外国はそれに対して援助すべきであると考える。

     最後に、私は「正義」の本質は公平にあると考える。例えば、犯した罪と与えられる刑罰は、均衡が図られなければならず、パンを1つ盗んだ事によって終身刑が科せれてはならないし、弱者と強者の間に不平等な契約が結ばされる事が...

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