日本の「総中流」社会の終わり

閲覧数1,787
ダウンロード数4
履歴確認

    • ページ数 : 2ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    日本は明治以降、職業選択の自由が法的に認められ職業によって社会的な地位が決定されるようになった。その結果、日本は学歴による資源配分原理が支配的な社会、つまり「学歴社会」になった。実績・努力・必要・均等を選択肢とし、理想と現実の資源配分原理を調査した結果、簡単に言うと「実績」と「努力」の対立がみられた。また、W雇上は実績が、W自営・B自営は努力が地位や経済的な豊かさを得るあり方であるべきだと答える傾向がみられた。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

     日本は明治以降、職業選択の自由が法的に認められ職業によって社会的な地位が決定されるようになった。その結果、日本は学歴による資源配分原理が支配的な社会、つまり「学歴社会」になった。実績・努力・必要・均等を選択肢とし、理想と現実の資源配分原理を調査した結果、簡単に言うと「実績」と「努力」の対立がみられた。また、W雇上は実績が、W自営・B自営は努力が地位や経済的な豊かさを得るあり方であるべきだと答える傾向がみられた。生まれ持った資産や看板など本人の力の及ばない部分が大きい自営業の人々が「努力」に傾くのは理解できる。だがホワイトカラーの実力は客観的に評価できるものではないにも関わらずなぜW雇上は「実績」を支持するのだろうか。親の学歴による隠れた資産と「階層の戦後」という点から、戦後の日本社会の「平等」について考えたい。
    まず実績主義に傾く人をもう少し詳しく見ると、学歴が高い人ほどその傾向が強いことがわかる。また本人学歴の高さと父親の学歴の高さというのはきれいに対応しており、父の学歴が高いほどW雇上になりやすいというデータがある。つまり親の学歴というのは本人にとって「目に見えない資産」となって...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。