小式部内侍

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    資料紹介

    一、母と子
    (一)母・和泉式部
    小式部内侍の母は、言わずと知れた平安の女流歌人、和泉式部である。彼女は、平安時代の摂関政治において最高にして最大の権勢を振るった藤原道長の娘・彰子に、教育係として紫式部や赤染衛門などとともに仕えた女性である。
    彼女は、歌人として当時からかなりの有名人であったが、また同時に恋多き女性でもあったようである。まず、小式部内侍の父でもある和泉守道貞と結婚の儀を結んだ。その後、為尊親王と深い仲になり、それがきっかけで夫である道貞に離縁を言い渡される。小式部内侍の誕生から、およそ一年後のことである。為尊親王が亡くなると、その弟宮にあたる敦道親王の寵を受け、その邸に招かれることとなった。しかし、その生活も四年後、兄同様敦道親王との死別によって終局を迎え、やがて一条天皇の中宮彰子に出仕することとなった。その二・三年後、彰子の実父である右大臣道長の継嗣・道通の家司、藤原保昌と結婚し、約十年後、丹後守となった夫・保昌に連れ添って丹後へと下った。このように、彼女は波乱万丈な男性遍歴をもつ女性であったのである。
    それに故にか、母・和泉式部は歌人としての名声はもとより恋多き女性故のスキャンダルも多い女性であった。これについて、小式部内侍は娘としてどう思っていたのであろうか。いかに時代が時代であったとはいえ、やはり少しも不快感を抱かなかったといえば、やはり嘘になるのではないだろうか。
    けれども、だからといって和泉式部は娘に対する愛情が欠けている女性というわけではなかったようである。例えば、小式部内侍は万寿二(一〇二五)年十一月に二十八歳前後の若さで没しているが、娘が亡くなったとき、母である和泉式部は、とどめおきて誰をあはれと思ひけん小はまさるらん子はまさりけり(四八五)と詠い、小式部内侍を追悼したという。

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       小式部内侍
         一、母と子
    母・和泉式部
     小式部内侍の母は、言わずと知れた平安の女流歌人、和泉式部である。彼女は、平安時代の摂関政治において最高にして最大の権勢を振るった藤原道長の娘・彰子に、教育係として紫式部や赤染衛門などとともに仕えた女性である。
     彼女は、歌人として当時からかなりの有名人であったが、また同時に恋多き女性でもあったようである。まず、小式部内侍の父でもある和泉守道貞と結婚の儀を結んだ。その後、為尊親王と深い仲になり、それがきっかけで夫である道貞に離縁を言い渡される。小式部内侍の誕生から、およそ一年後のことである。為尊親王が亡くなると、その弟宮にあたる敦道親王の寵を受け、その邸に招かれることとなった。しかし、その生活も四年後、兄同様敦道親王との死別によって終局を迎え、やがて一条天皇の中宮彰子に出仕することとなった。その二・三年後、彰子の実父である右大臣道長の継嗣・道通の家司、藤原保昌と結婚し、約十年後、丹後守となった夫・保昌に連れ添って丹後へと下った。このように、彼女は波乱万丈な男性遍歴をもつ女性であったのである。
     それに故にか、母・和泉式部は歌人として...

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