人間の本音というものは、一般に嘘と事実の境目から分かってしまうものである。例えば、事実であることを事実でないと言い張る場合は、事実を隠蔽する意図があることが窺える。つまり一つの主体が発する事実であることと、事実でないこと、の情報の分析から、その主体の真の意図が窺えると考える。その主体の意図や伝えたい内容が文化に関することであればそれは文化論になりうる。主観的印象、推測は、事実ではないか、事実であるかはわからない。主観的印象そのものは事実かもしれないが、一般にその主観的印象を与えた事実が普遍的にその他の人にも同じ主観を抱かせるかは分からないので、主観的印象を普遍的な事実としては認めがたい。推測の結果、検証後それが事実であったということが分かる場合もあるが、推測の時点では、推測の内容が事実であるかどうかはわからない。そこで、SilkoのThe Border Patrol Stateにおける、主観的印象、推測などの、事実ではないか、事実であるかどうかはわからない記述の分析と、客観的な事実の記述の分析から、アメリカ文化論を探っていく。
The Border Patrol StateにおけるLeslie Marmon Silko の主観的記述と客観的記述の分析から割り出すアメリカ文化論
人間の本音というものは、一般に嘘と事実の境目から分かってしまうものである。例えば、事実であることを事実でないと言い張る場合は、事実を隠蔽する意図があることが窺える。つまり一つの主体が発する事実であることと、事実でないこと、の情報の分析から、その主体の真の意図が窺えると考える。その主体の意図や伝えたい内容が文化に関することであればそれは文化論になりうる。主観的印象、推測は、事実ではないか、事実であるかはわからない。主観的印象そのものは事実かもしれないが、一般にその主観的印象を与えた事実が普遍的にその他の人にも同じ主観を抱かせるかは分からないので、主観的印象を普遍的な事実としては認めがたい。推測の結果、検証後それが事実であったということが分かる場合もあるが、推測の時点では、推測の内容が事実であるかどうかはわからない。そこで、SilkoのThe Border Patrol Stateにおける、主観的印象、推測などの、事実ではないか、事実である...