連関資料 :: 政治学

資料:265件

  • 竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治
  • 竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』  これはアイについての物語かも知れない。「私」という意味の「アイ」であり、「アイデンティティ」の頭文字としてのアイ。すなわち、「私」について語ることが、「愛」について語ることではある。  『愛について』は、「愛」の不可能性かつ「私」の不可能性の物語である。「アイ」のくるおしさに満ちた書。。。  愛においてわたしは、わたしがもっていないものを与える。なぜならあなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在しているから。だからわたしの愛は、いつもわたし自身の愛から疎外されている。 (p.109)  ラカンによれば、「欲望はつねに《他者》の欲望である」。言語の網の目の中にいる「私」は、自ら言語を所有することによって、「愛」の主体となることも、言語を否定することによって、「愛」を所有することもできない。しかしながら、それは「私」の「愛」が「あなた」に向かって開かれていることを意味しない。「愛」は常に不可能なまま、「わたし」と「あなた」の間を反復し続ける。  それゆえ、「愛」は永遠に経験されることはないだろう。経験されることのないまま、無限の反復運動を続ける。しかしながら、私たちはそれを「愛」と名づける。名づけることによって、「愛」に実体を与えようとする。「ファルス」(男根)の名の下に。ファルスが特権化されるとしたら、それは「愛」に生殖の流れを表象させるからである。「正しい愛」は、社会通念や法によって正当化されているから正しいのでなく、愛の困難さを知ることから免れているから、正しい。  しかしながら、「正しくない愛」によって、愛が経験されるわけではない。制度上の差別化によって、法は、「私」という場に、「私」特有の形態をとって現れる。これによって「愛」が経験されることはないのである。  筆者のおこなうものは、異性「愛」が社会的に構築されたものであるとして、糾察することではない。なぜなら、異性愛は、そもそも不可能だからである。それゆえ、筆者は同性愛を特権化することもない。同性愛もまた、不可能だからである。ただ、その不可能性と対峙すること、それが唯一残された、倫理的態度である。  おおよそ、異性愛主義の批判は、異性愛主義に対し同性愛主義を対置し、異性愛主義が異性愛を特権化するのと同様に、同性愛を特権化してきた。そのような批判は、一見異性愛主義を相対化しているように見えて、異性愛主義者が自らを特権化するのと同様に、同性愛主義の特権を問うことに失敗している。なぜならかれらもまた「私」を問わないからである。  「私」を問わない批判は、その不可能な「私」に気づくことなく「私」を表象する。そして、「私」は「アイ」の名の下に、「私」を支配する。 *           *           *  であるからこそ、筆者は「私」の政治である、アイデンティティの政治(ポリティクス)について問う。アイデンティティの政治とは、いわゆる多数派に対して、いわゆる少数派が独自のアイデンティティを主張し、自らを名づけることである。筆者によれば、「区別でなく差別化されてきたセクシュアリティ、あるいはクローゼットの中に隠さざるを得なかったセクシュアリティを、みずからの『真正さ』として主張し、『普通の生活』を要求する」ものである。  しかし、「これまで否定的なしるしがつけられていた名づけをちかって、その名づけを換骨奪胎するために行う『アイデンティティの政治』も、その名づけが既存の抑圧的な〈言語〉による定義にとどまっているかぎり、そ
  • 全体公開 2007/12/21
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  • 国際政治 重要な要素 国際政治はどのようにして歴史分析のための重要な要素の1つとなったか
  • 国際政治はどのようにして歴史分析のための重要な要素の1つとなったのか。  それは、国際政治は歴史そのものであるからだと私は考える。  国際政治とは政府間の政治にかかわるさまざまな相互作用の総体ということになる。また、国家を基盤とした人間の集合体の間の政治的相互作用であり、その相互作用のネットワークは単に政府間にのみ限定されるものではない。国際政治の行為主体は政府だけではなく、さまざまな非政府組織も関与している。そこには政府間で構成されている国際機構や国際組織なども重要な行為主体となってくる。  このように領域が拡大している中で、そうした1960年代末から顕著になった「経済の政治化」という状況がある。経済規模が国家の枠組みを超えたかたちで拡大した結果、貿易などを通して他国に諸々の影響をもたらし、貿易の推移に応じて失業やインフレなど社会的問題をも引き起こすことになった。  このように、政治は経済と密接に関係しており、それはまた人を動かし、歴史を動かしてきた。ゆえに、国際政治は歴史そのものであると私は考えている。  次に国際政治の歴史をみてみると、三十年戦争を終結させた1648年のウェスト
  • 歴史 日本 アメリカ 経済 政治 国際 戦争 社会 イギリス 国際政治
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 『都市対地方の政治』にみる「イデオロギーの終焉」
  • 1.序論  本レポートは、現代政治学者白鳥浩の著作である『都市対地方の政治学』(2004、白鳥)より読み取れる、いわゆる「イデオロギーの終焉」について、先行研究は既に数多く発表されているとは思われるが、敢えて再び一学部生の視点から考察するものである。また、主文献である前述書の論考を、イデオロギー論の視点から辿ってみたい。  『都市対地方の政治学』における主たる論考は、「政界再編」は「中心」である中央政界の変動しか語られなかったが、イデオロギー終焉時代がもたらした「政界再編」は、従来の「中心」による決定形成が効かず、中央政界は「周辺」からの直接民主的レファレンダム(国民投票、県民投票、住民投票)志向という挑戦を受け、対立関係が生まれているというものである。この論考は「イデオロギーの終焉」という命題を前提に展開されている。これは、前述書を見れば成る程一見妥当な論議かと思われる。しかし、著者にはあまりにもこの命題に依存されすぎているような気がしてならない。本レポートでは、今一度「イデオロギー終焉」論のレリヴァンシーを問いただし、その上で白鳥の論考について考察するものである。 2.イデオロギーの概念と「イデオロギーの終焉」  そもそもこのイデオロギーとは、一体何を指すものなのか。今一度その概念を確認してみる。白鳥は、ジョン・プラムナッツに倣ってこれを「実態的価値体系」と示している。その定義は、イデオロギーを階級的なものとするマルクス主義的イデオロギー論を批判し、その上で「イデオロギーはある集団や社会に特有の一連の緊密に関連しあった信条や、観念、さらには態度などを指して用いられる」とその用法を限定し、「多くの人々にとって、何よりもまず、政党やその他の組織が掲げている理論、あるいはこれらの組織が権力や影響力を獲得する試みをなす際に用いる理論を意味する」とある。
  • レポート 社会学 政治社会学 イデオロギー 中心 周辺
  • 550 販売中 2006/01/22
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  • 政治「現代社会における議会制民主主義について」
  • 「現代社会における議会制民主主義について」  近代国家では当初、政府の役割を最小限に制約し、権力を集中させない「夜警国家」が主流であった。しかし、第二次世界大戦敗北により、連合国より平和国家の確立を要求され、「福祉国家」「民主主義国家」として歩むことになったのである。そして、1946年に日本国憲法が発布され、憲法の原則に国民主権が取り入れられたのである。  民主主義とは、「人民による統治」、つまり、国民主権の原則に基づき、国民が自らのために政治を行う主義である。社会契約説においては、「みんなで話し合い、物事を決定するという考え方」としており、リンカーン大統領は「人民の、人民による、人民のための、政治」と唱えた。まさに、民主主義とは国民が主体となり、物事を決める仕組みなのである。 この民主主義には、2つの民主制が存在し、1つが「直接民主制」、もう1つが「間接民主制」である。ちなみにわが国では、国民の代表が議会に集まって政治を行う議会制度において、後者を採用している。  直接民主制は、国に関わる出来事を自分たちで直接投票して決める仕組みで、古代ギリシア、アテネの政治が原型である。また、思
  • 550 販売中 2009/01/28
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