太宰治〜『冬の花火』〜

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    資料紹介

    太宰治~『冬の花火』~
    はじめに
    桃源郷―一幕・二幕・三幕
    冬の花火
    おわりに
    はじめに
    〝恥の多い生涯を送ってきました。自分には人間の生活といふものが、見当たらないのです〟(『人間失格』)
     太宰治はまさに〝自由奔放に生まれてきた〟(豊島与志雄の弔辞)太宰ほど今でもファンが絶えない作家はいない。六月十三日の彼の命日には、三鷹市の禅林寺にファンが今でも詰め掛ける。彼のその壮絶な人生と彼の身を削るような作品作りに今でも否がおうにも感銘を受ける読者がいるのである。
    1909年、地主の家に生まれ、それが彼の負い目ともなる。また、芥川龍之介の自殺に強い衝撃を受ける。1930年、東京帝国大学仏文科に進学上京。井伏鱒二に師事する。田辺あつみと心中を図るが、女性だけが死ぬ。1931年、小山初代と同棲し、『逆行』などで第一回芥川賞次席となる。このとき、川端康成との芥川賞事件を起こし、自身もパビナール中毒に悩まされながら、1936年、『晩年』を刊行する。1937年、初代と心中未遂を起こし、後、離別。1939年、石原美知子と結婚し、『富岳百景』を発表。翌1940年、『走れメロス』を発表。1942年、母たねの死去をきっかけに1944年、『津軽』を発表。太田静子と交遊をはじめる。1946年、戯曲『冬の花火』を発表。1947年、『ヴィヨンの妻』『斜陽』を発表する。この頃、山崎富栄と知り合う。1948年、『人間失格』『グッド・バイ』を発表し、もはや精神的にも肉体的にも疲れ果てた太宰は、六月十三日、山崎富栄と玉川上水に入水自殺をした。享年38歳。
    文学界のプレイボーイとも言えるその遊楽ぶりには少々、疑問が残るが、彼の作品は年を経るごとに力が増していった。そして、晩年になればなるほど自身を削るようにして書いていった。太宰治という人物は生来、作家として生まれ出てきた人間であった。彼は自身を人間失格と評した。
    では、彼の作品の中から戯曲『冬の花火』を取り出し、読み解いていきたい。
    桃源郷―一幕・二幕・三幕
     『冬の花火』の舞台は、戦争が終わり、敗戦国の日本としてこれから国家を再建していこうとする時代が舞台となっている。そこには大きな希望もあり、また、その希望に裏切られた失望感を漂わせた世界が広がっていた。
     『冬の花火』において、象徴的に使われるのが〝桃源郷〟という言葉である。数枝はこの「桃源郷」についてこう述べている。
    アナーキーってどんな事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友達ばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙もないし、演説もないし、皆が自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落が作れないものかしら。あたしは今こそ、そんな部落が作れるような気がするわ。(P145L11~L16)
    「桃源郷」は陶淵明の「桃花源記」に書かれた理想郷を基にする。支那といえば中国の旧称であるが、ここではそういった意味は殆どない。少なくとも「桃源郷」は数枝にとっての理想郷であることは間違いない。その条件とは
    気の合った友達ばかりで田畑を耕作=百姓生活
    政治とも思想とも隔離された場所
    自分の過去の罪を自覚/聖書の黄金律の実践
    であった。数枝は日本の未来に絶望をしている。
    負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひと

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    太宰治~『冬の花火』~
    はじめに
    桃源郷―一幕・二幕・三幕
    冬の花火
    おわりに
    はじめに
    〝恥の多い生涯を送ってきました。自分には人間の生活といふものが、見当たらないのです〟(『人間失格』)
     太宰治はまさに〝自由奔放に生まれてきた〟(豊島与志雄の弔辞)太宰ほど今でもファンが絶えない作家はいない。六月十三日の彼の命日には、三鷹市の禅林寺にファンが今でも詰め掛ける。彼のその壮絶な人生と彼の身を削るような作品作りに今でも否がおうにも感銘を受ける読者がいるのである。
    1909年、地主の家に生まれ、それが彼の負い目ともなる。また、芥川龍之介の自殺に強い衝撃を受ける。1930年、東京帝国大学仏文科に進学上京。井伏鱒二に師事する。田辺あつみと心中を図るが、女性だけが死ぬ。1931年、小山初代と同棲し、『逆行』などで第一回芥川賞次席となる。このとき、川端康成との芥川賞事件を起こし、自身もパビナール中毒に悩まされながら、1936年、『晩年』を刊行する。1937年、初代と心中未遂を起こし、後、離別。1939年、石原美知子と結婚し、『富岳百景』を発表。翌1940年、『走れメロス』を発表。1942年、母たね...

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