東西交流の観点から見る日本における国名・民族名の受容史

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    国際関係研究I / II
    6 Feb 2007
    東西交流の観点から見る日本における国名・民族名の受容史
    I. ペルシャ・イラン
     ペルシャという国の存在は、日本では古くから認識されていた。
     最古の可能性としては、 親王(676-735)の執筆になる「日本書紀」巻第二十六において、斉明天皇(594-661)のころに「 」という外国人が再来日を約束して帰国したという内容のことが書かれているものがあげられる。イラン学者・伊藤義教はこの外国人を、イラン奪回作戦の援助を乞いに来たペルシャ人の王ダーラーイであると主張している。 また「宇津保物語」(平安中期)俊蔭巻には、「波斯国」に漂着した俊蔭という人物の冒険物語を描いているが、これは「波斯」をそのまま「ハシ」と音読みしたと考えられている。中国の「梁書」には「波斯」伝があり、日本にも中国からその知識とともに「波斯」の表記が伝えられたらしい。
    近世になってハルシャという風に呼ばれるようになる。「増補華夷通商考」(1708)四には「ハルシャ 百爾斉亜(ハルシャ)婆羅遮国 日本より海上五千五百里。南天竺の西辺也」などという記録が残されている。また、朱子学者・新井白石(1657-1725)の「西洋紀聞」(1725頃)中には、「ハルシャ、〈漢に巴爾斉亜、また巴皃西と訳す。我俗にハルシャといふ、此也〉インデヤの西、アフリカ地方の東につらなれり」とある。 さらに19世紀になって、「ペルシャ」の表記が登場する。渡辺崋山(1793-1841)の「外国事情書」(1839)には「右は皇国・唐土・天竺・ 〈略〉等の国に御坐候」との記述があり、「異人恐怖伝」(1850)序には「 ハルシャなり」という説明が見られる。 「日本国語大辞典」はこれらの「ハルシャ」の読みは、オランダ語Persiaから来ているとする。
     「波斯」や「ペルシャ」の語源は、現在のイランのことが古ペルシア語(OP)でPārsaと呼ばれていたことにさかのぼるだろう。現在のペルシア語では

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    国際関係研究I / II
    6 Feb 2007
    東西交流の観点から見る日本における国名・民族名の受容史
    I. ペルシャ・イラン
     ペルシャという国の存在は、日本では古くから認識されていた。
     最古の可能性としては、 親王(676-735)の執筆になる「日本書紀」巻第二十六において、斉明天皇(594-661)のころに「 」という外国人が再来日を約束して帰国したという内容のことが書かれているものがあげられる。イラン学者・伊藤義教はこの外国人を、イラン奪回作戦の援助を乞いに来たペルシャ人の王ダーラーイであると主張している。 また「宇津保物語」(平安中期)俊蔭巻には、「波斯国」に漂着した俊蔭という人物の冒険物語を描いているが、これは「波斯」をそのまま「ハシ」と音読みしたと考えられている。中国の「梁書」には「波斯」伝があり、日本にも中国からその知識とともに「波斯」の表記が伝えられたらしい。
    近世になってハルシャという風に呼ばれるようになる。「増補華夷通商考」(1708)四には「ハルシャ 百爾斉亜(ハルシャ)婆羅遮国 日本より海上五千五百里。南天竺の西辺也」などという記録が残されている。また、朱子学者・新井白石(1657-1725)の「西洋紀聞」(1725頃)中には、「ハルシャ、〈漢に巴爾斉亜、また巴皃西と訳す。我俗にハルシャといふ、此也〉インデヤの西、アフリカ地方の東につらなれり」とある。 さらに19世紀になって、「ペルシャ」の表記が登場する。渡辺崋山(1793-1841)の「外国事情書」(1839)には「右は皇国・唐土・天竺・ 〈略〉等の国に御坐候」との記述があり、「異人恐怖伝」(1850)序には「 ハルシャなり」という説明が見られる。 「日本国語大辞典」はこれらの「ハルシャ」の読みは、オランダ語Persiaから来ているとする。
     「波斯」や「ペルシャ」の語源は、現在のイランのことが古ペルシア語(OP)でPārsaと呼ばれていたことにさかのぼるだろう。現在のペルシア語ではPārsであり、アラビア語ではFārsと呼ばれている。
    また、現在のイランという国名はもともとペルシア人自身がIrānと自称して来たことから来ている。 それは、イランの宗教であったゾロアスター教の経典「アヴェスター」の中での自称Airyanaの転訛であり、言語学的に近縁だといわれるサンスクリット語のāryas(高貴な)との関連などから「高貴な民族」という意味での自称だと考えられている。ちなみに現在の学者はこの名称をもとに、イランやインドに侵入したインド・ヨーロッパ語族の一派を「アーリア人Aryan」と総称している。
    II. インド
     インドとは、古くから仏教を通して関係があった。
    少なくとも奈良時代には、中国ですでに成立していた「 」という名を使っていたと思われる。736(天平8)年には南天竺出身の (Bodhisena, )(704-760)が来日し、752年に行われた東大寺大仏の開眼供養では導師を務めたという記録が残っており、 「正倉院文書・東大寺献物帳」には「統四接而楊休、声籠天竺、菩提僧正渉沙而遠到」とある(756年)。 なおこの「天竺」という古称は次第に拡大解釈され、ヨーロッパ人の渡来後には「天竺牡丹」や「天竺鼠」などのように、日本にとっての遠い外国を指す「異国風の」を意味するいわば接頭辞として使われることもあった。
     ほかにも「 」という呼称が、中国から輸入された。これは漢代以降の中国での呼称であり、文献的には後漢書-西域伝の「天竺国一名身毒、在月氏之東南数千里」という記述を通して輸入されたと思われる。 13世紀の「平家物語」一・鹿谷には、「八幡に百人の僧をこめて、信読の大般若を七日よませられける最中に」の言葉が残っている。 日本で使用され始めたのは古いと考えられている。
     「 」という呼称も古くから流入していた痕跡が伺える。すでに浄土真宗の開祖・親鸞(1173-1263)の著した「教行信証」(1224)には「印度西天之論家、中夏日域之高僧」といった記述が見え、江戸時代までには一般化したものと考えられる。この「印度」という書き方はおそらく、インドに旅した唐の僧・玄奘三蔵(602-664)が「大唐西域記」二において、「天竺」の名称が「身毒」や「賢豆」など異議糾紛していることに触れ、「印度」と呼ぶことを主張したことにさかのぼると思われる。
     なおこの中国起源の「天竺」「身毒」「印度」という三種類の呼称は、おそらく同一の起源を持つと思われる。仏教学者・中村元は「印度」の語源には、ペルシャ語、およびギリシャ語の影響があると主張する。彼はインド人自身が自分たちを「印度」と呼ばず、「バーラタBhārata」と呼ぶことに着目し、インダス河流域のサンスクリット名Sindhuにその起源を求めている。つまり、最初にそのSindhuがペルシャ語に入ったことでsがhに変わりHinduとなり、さらにhの音を持たないギリシャ語イオニア方言によってIndosとなりヨーロッパへ伝播し、さらにギリシャ語名を玄奘三蔵が「印度」として持ち帰った、と主張している。 アレクサンドロス以来、インドがギリシャ人の侵入を受け続けた歴史からかんがみても、納得できる説である。また「日本国語大辞典」は「天竺」の名称はペルシャ語において の転訛したThenduから生じたという説を紹介し、 「身毒」の名称はサンスクリット語Sindhuの音訳であると主張している。 いずれにしても、インドの国名はインダス川の名称にさかのぼるであろう。
    III. ギリシャ
     ギリシャの民族名「イオーニア」を、日本人はかなり早い時期から仏典を通して知っていた可能性があると思われる。インドは古くからギリシャ人と接触を持っていたらしいが、特にマケドニア王・アレクサンドロス(356B.C.-323B.C.)のインド遠征以降、西北インドがギリシャ人の制圧下に置かれた。 紀元前2世紀のインドの文法家・パタンジャリは「ギリシャ人がサーケータ市を包囲した。ギリシャ人がマディヤミカー市を包囲した。arunad Yavanaḥ Sāketam: arunad Yavano Madhyamikām」という文法例文を挙げている。 その他「マヌ法典」(紀元前後)10:44では、ギリシャ人一般のことをYavanaと呼んでいる。 このYavanaはサンスクリット語であり、パーリ語ではYonaあるいはYonakaと呼ぶ。これは古ペルシア語Yaunaあるいはヘブライ語Yāvānからサンスクリット語へ借用されたと考えられており、究極的にはギリシャ人の一支族の名称「イオーニア人」Iavōnes, Iaōnesにさかのぼるとされている。
    「善味律毘婆沙」第二巻のパーリ語原本ではギリシャ人が多いバクトリア地方が「ヨーナカローカYonakaloka」と呼ばれ、漢訳では「 国」と訳されている。 このパーリ語経由の「臾那」という国名が、どのように日本に影響したかはよくわからない。しかし、いわばサンスクリット語辞書とも言うべき「 」四巻〈大〉五四巻1011下には、「耶槃那Yavana王、訳曰辺地」という項目があり、 これもバクトリア地域のギリシャ王のことを指していると思われる。この「翻梵語」の写本は日本にしか存在していないが、もともと中国で梁(502-557年)あるいは陳(557-589年)の時代に書かれたと考えられている。唐への留学を経験した日本の僧・智證大師圓珍(814-891年)の「入唐新求聖教目録」には、すでにこの書物の名前が見えている。 従って、「イオーニア」という民族名が、サンスクリット語Yavana経由で「 」として、細々とではあれ平安時代にすでに日本の佛教関係者の間に知られていたと思われる。だが当時の日本人にとっては、バクトリアのギリシャ人の殖民やその故郷であるギリシャ本国についてほとんど情報がなく、「イオーニア」という民族名が伝わっただけで正確な内容までは理解できず、まさに「辺地」の一民族としてだけの理解だったのだろう。
     それよりなお正確なヨーロッパの一員としてのギリシャの国名がもたらされたのは、戦国時代に日本に来たカトリックの宣教師たちによるのが始めであろう。スペインの神秘主義者Luis de Granada(1505-88)の著作Guia de Pecadoresの和訳「ぎやどぺかどる」(1599)上・一・三には「げれしやと云国の内」という記述が見える。また、イソップ物語の和訳流布版である「仮名草子・伊曾保物語」(1639頃)中・三には「げれしやの国の駒いな鳴時は」という表現が見える。これらは、翻訳に携わった宣教師の言語であったポルトガル語Gréciaに基づくものと考えられている
     もともとこのポルトガル語での呼称Gréciaは、ラテン語での呼称Græcusにさかのぼると思われる。その他のヨーロッパ諸言語における呼称(英:Greece、仏:Gréce、独:Grieche、ゴート:Krēksなど)もそのラテン語呼称にさかのぼり、さらにギリシャ語でのGraikósにさかのぼるとされる。アリストテレスによれば、ギリシャ人の先史時代の古名だとされているが、ギリシャ人自身はHellēnesと自称している。 それに基づき現在の正式名称はΕλληνική Δημοκρατία / Hellenic Republicである。
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