連関資料 :: 人権(同和)教育

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  • 戦後の同和教育史を概括し、同和人権教育の意義と学校における同和人権教育実践の具体的なあり方を論述せよ(
  • 『戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。』  戦後の「同和教育」において、まずは京都市の取組を中心に見ていきたい。 1951年に京都市で「オールロマンス事件」が起こった。これは、『オールロマンス』という雑誌に京都市内の被差別部落を題材にした小説が「〈暴露小説〉特殊部落」と銘打って掲載されたことが発端である。この小説の内容は、京都市衛生局の保健所職員が仕事上で見聞きしていた被差別部落の実態を、その劣悪な生活環境を生み出した背景も踏まえずに差別的な言葉を随所に散りばめ、興味本位に書いたものであった。京都市は、当初この問題を筆者個人の差別意識の問題として職員の解雇で解決を図った。「行政当局はこの差別問題とは関係ない」というスタンスであった。しかし、部落開放委員会京都府連合会は、筆者自身の差別的偏見も認めつつ、そこに描かれている劣悪な生活環境と社会的差別の実態は京都市の被差別部落に現実に存在しているとし、行政責任を追及したのである。 教育面では、学区内外や教室での差別状況、教員の赴任拒否、児童生徒の不就学率や退学率が全市水準に比べて非常に高くなっていた。これらの実態が差別を再生産していることに気づかない行政の被差別部落に対する無関心さこそが京都市政の差別性を示すもので、この実態を放置してきた行政にこそ根本的な責任があり、またこれは京都市だけの問題ではなく全国の同和行政の課題であることを明らかにした。この事件以降、生活の中にある低位な実態を放置してきた政治・行政に対する闘いとして、差別行政糾弾闘争が展開されていくのである。  戦後の京都市における同和教育施策は、同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学の取組に始まる。同和地区児童・生徒の不就学率の高さは特筆される。オールロマンス事件当時の長期欠席児童・生徒数は、小学校で京都市0.6%に対し同和地区6.5%で、中学校では京都市2.8%に対し同和地区28.7%とどちらも、京都市平均の10倍という高率である。同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学問題は、同和教育創生期における最重要にして緊急の教育課題であった。 差別行政糾弾闘争をうけて京都市は「今後の同和施策運営要綱」を策定し、これに基づき戦後初の同和教育費200万円が52年度予算として計上されることになる。 そしてその10年後の1962年度の長期欠席同和地区児童・生徒は、小学校では2.8%(京都市0.6%)、中学校で5.1%(京都市1.0%)と大幅に減少する。こうして、同和地区が抱え続けてきた長期欠席・不就学問題は、行政の予算を伴った具体的な教育施策を実施し、ようやく解決の方向に向かうことになる。ただ、一定の成果は得たものの、1952年より計上されるようになった同和教育費はその後も年々増加する。それは、同和地区における教育課題が長期欠席・不就学だけではないことを物語っている。そして、1960年代に入ると、同和教育施策として学習に遅れが見られる同和地区児童・生徒に対し、勤務時間外(多くは夜間)の補習授業が実施されるようになった。1963年3月卒業の同和地区の高校進学率は34.6%、京都市は75.0%で、実に40.4%の格差があり、こういった実態からも同和地区児童・生徒の学力保障・進路保障が、次なる重要課題として認識されていくこととなる。しかし、制度化された補習学級事業が十分な成果を上げていなかったことから、補習学級から独立した、進学促進ホールが開設された。具体的には、全市の同和地区生徒が夜間登校し
  • 同和教育 人権問題 同和教育史 佛大 教育学
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  • 戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ
  • 『戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ』 Ⅰ.戦後の同和問題と同和教育 戦後、日本国憲法が制定され、民主的な平和主義国家のもと個人の尊重が明文化され、法の下において誰もが平等という社会がスタートした。それは当然被差別の人々が差別されなくなるということを意味しているが、実態としては戦前とあまり変わらない状況のまま行政から放置され、社会から排除され続け、差別意識も根強く残っている社会の継続であった。しかし日本国憲法の理念は戦前とはまったく異なるものであり、それが差別に対する闘争運動や、同和問題に対する言及を活発なものにした。当時の政府の同和問題に関する答申では「同和問題の解決は、国の責務であり、同時に国民的課題である」と表明している(1965年)。以下、内容である。 ① 雇用(就労)を促進し安定した経済基盤の保障 ② 劣悪な居住環境を改善していくこと ③ 「同和地区」の子供たちの教育権を保障すること このうち3番目が同和教育に関連したことである。この「教育権を保障すること」の目的とするところは、生徒の長期欠席・不就学問題の解消や学力向上、進路保障、教育の機会均等などといったことへの実現である。  京都市においては1955年以降、「補習学級事業」が制度化された。これまで補習教育(学級)は各学校、教員の自主的な活動であったが、教育機会均等の権利を保障するため制度化されたのである。しかし実際10年間かけたこの制度の実態を調査してみたところ学力はあまり上がらず、高校進学率は一般水準と比べて50%以下と低く、依然格差は縮まらなかった。このような状況を受け、1964年に同和教育方針が策定された。戦後はじめて同和教育予算が組まれ、進学促進ホールが開設され、子どもクラブ(子ども会)、同和教育講座等の費用が計上された。画期的な前進であり、取り組みは強化されていくが、部落内対策という域を越えるものではなかった。  1969年には京都市同和対策長期計画(第1次試案)が策定され、基本方針の中のひとつに「教育の全分野において、それぞれの公務員が、その主体性と責任において同和地区児童生徒の「学力向上」を至上目標とした実践活動を推進する」とある。これは同和地区の学習環境の実態を鑑み、その環境整備の必要性を指摘してきた経緯が背景としてある。したがって、1970年代以降、「学習センター」が同和地区内に建設され、12年間に14センターの建設に至るのである。このような取り組みにより、同和地区生徒の学力、高校進学率は向上し、これまで一般水準の半分に満たなかった進学率が92%を超えるまでに至った。こうした京都市の同和教育施策における成果は保護者や同和地区住民や子ども、学校や教員などの互いの協力と努力により導かれたものだといえる。 Ⅱ.同和教育の意義 憲法と教育基本法の理念が「同和問題解決は国と地方行政の責務と国民の課題」という観念を持たせている。したがって同和教育とは社会教育として位置づけられ、憲法と教育基本法の理念・目標達成のために国民に広く振興されるべき重要な働きかけといえる。国と地方行政と地域社会(国民)が、部落のおかれている経済的・社会的低位状況の改善や社会の差別意識の根絶を同和教育を中心にし、差別の実態を把握し、課題解決のための同和教育を確立すべきなのである。かつての同和教育は同和地区の子どもたちが対象の活動であったが、近年、同和地区外にも広く教育活動として進められてきている。学校における同和教育では単に知識の
  • 同和(人権)教育 同和教育 同和問題 レポート B5八枚分相当
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  • 同和人権教育実践の具体的なあり方について
  • 〔意義・歴史〕 日本における人権教育は、しばしば同和教育を中核にとらえられてきた。1953年に教育関係者によって全国同和教育研究協議会が結成されるに及んで、同和教育という名称が定着するようになった。全国同和教育協議会が結成され、活動を開始した1950年代当時、敗戦直後の日本は社会全体が戦争の傷あとに覆われていたため、部落と部落外の格差は表面的には見えなくなっていた。しかし、復旧活動がすすみ、しだいに景気が回復すると、そこから取り残されるかたちで再び格差が目に見えた。厳しい生活状況の中で、それは、児童の長期欠席・不就学というかたちであらわれた。それらの最大の原因は、家庭の貧困であったとされるが、学校側の教育方法にも問題があったと考えられる。1960年代に入り、ようやく長期欠席・不就学は解消へ向かった。その背景としては、部落解放運動と同和教育運動が連携して、教育条件の整備を要求し、実現していったことがあげられる。しかし、長期欠席・不就学が解消されていくなか、長欠生の戻ってきた学校で、子どもたちの進路をめぐる問題、非行問題という新たな問題がもちあがった。この二つにはともに、1960年代の高度経済成長と連動して展開されてきた受験競争と、その結果としての切り捨て教育・落ちこぼし教育に根本的な原因はあったと思われる。だが、「同和加配教職員」の制度化によって、“補充学級”や“促進指導”が可能となり、「学力保障」さらには「進路保障」へ向けての活動が開始されることになった。こうして、奨学金制度の充実とも相まって、部落の子どもの高校進学率は飛躍的に向上した。1970年以降の特徴の一つに、同和教育における“教育内容の創造”がある。その背景には、60年代からの宿題であった「進路保障」がある。そのためには「学力保障」が必要であり、さらには、各教科で「学力」をいかにつけるかという課題がクリアされなければならなかった。とはいえ、同和教育の実践に、差別からの解放という大きな目標がある限り、ここでいう「学力」とは、単なる“受験の学力”ではなく、“人間解放につながる学力”でなければならない。1971年の第23回全同教大会で提起された「四認識」は、そうした“人間解放につながる学力”をみすえたものであった。そのためには、豊かで科学的なものの見方ができるだけでなく、行動や実践につながっていくような教育内容でなければならなかった。そのためには、総合的な認識をバラバラにしている従来の教科・領域の枠を超え、新たな枠組みを設定する必要があった。こうした問題意識から、「言語認識」・「社会認識」・「自然認識」・「芸術認識」という「四認識」の構造が設定された。現在では、「四認識」の提起を継承するものとして、1990年以降に広がりつつある「人権総合学習」がある。98年末に告示された新学習指導要領が、「総合的な学習の時間」を新たに設定、2002年からの実施を求めたこともあって、「人権総合学習」の実践が全国的に注目されている。 〔教育実践〕 同和教育にとって人間関係づくりや仲間づくりは、その出発点の頃から大切にされてきたことである。そこで、同和教育における人間関係づくりの基本的な二つの側面である、生活をつづりあうことと、組織していくことに着目する。その具体的な方法として、学級を開いたその日に、生活ノートと班ノートという二冊のノートを配る。生活ノートは個人もちのノートで、担任との交換ノートという性格をもたせる。もう一方の班ノートは、同じ班のメンバーで回すグループ交換ノートというかたちにする。どちらのノートも内
  • レポート 教育学 人権 同和問題 部落差別 教育実践 同和
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